「本当は寂しがりやで、誰かと一緒にいたいのに、なぜか人が離れていってしまう」人がいます。どんなことにも、必ず理由があります。好かれる人には、好かれる理由があり、嫌われる人には、嫌われる理由があり、孤独になる人には、孤独になる理由があるのです。

「執着している人」ほど孤独を引き寄せる

では、「孤独になってしまう理由」とは、何なのでしょうか。

「執着」です。執着が強い人は、孤独になりやすいのです。

しかし残念ながら、多くの人は、自分が執着していることに気づきません。無意識のうちに執着し、気が付かないうちに執着を強め、人が離れて、孤立化してしまっても、まだ自分の執着に気づかないのです。

執着は恐ろしいものです。年を重ねるごとに強くなります。そして確実に、孤独感と生きづらさを増します。孤独は寂しいものです。どんなに強がってみても、人間は社会的動物ですから、本能的に孤独を恐れます。

執着を強めないために、孤独にならないために、私たちはどんなことに気をつければいいのでしょうか。

手放すべき、4つの執着

お釈迦さまは、気をつけて手放すべき「4つの執着」を説かれました。

  1. 欲(五欲)への執着
  2. 意見・見解への執着
  3. 儀式・儀礼への執着
  4. 我論への執着

この4つは、誰もが持っています。

興味深いことに、これらの執着は、1~4の順に深くなっていきます。1より2のほうが、2より3のほうが、3より4のほうが、より根深い。よって、4に近づくほど、気が付きにくく、手放しにくい、というのです。

それぞれの執着について、もう少し詳しく見ながら、その理由を説明していきましょう。

1. 欲への執着

欲への執着とは、「もの」に対する執着です。見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、食べるもの、着るもの、触れるもの、感じるものなど、五感を刺激する、あらゆるものへの執着です。

具体的には、お金、食べ物、家、車、家族、恋人、友人、会社、仕事、趣味、体、顔、健康、若さ、美しさ、勉強、スポーツ、地位、名誉など、五感にふれるものは、何であれ、執着の対象となります。

ここで間違えないでいただきたいことは、「生きるための欲求と、執着は違う」ということです。生きるために、食べる、寝る、住まいや物を買う、異性を求めるなどは、生きるための必要欲であって、執着ではありません。

必要以上に求めたり、借金をしてまで欲しがったりして、自分の生活の質や健康を損なったり、他人を騙したり、傷つけたりしてまで欲することが、執着です。

2. 意見・見解への執着

この執着は、自分の意見や見解に固執することです。私たちの心は、五感に刺激が入ると、すぐに意見や見解を作り出します。

五感に触れたすべての事象にいちいち、好き、嫌い、つまらない、楽しい、嬉しい、かわいい、キレイ、ヤバい、旨い、まずい、ダサいなどの意見を持ちます。

意見・見解を持つこと自体は、問題ありません。しかし当然、他人にも意見があります。だから、自分の意見に執着すれば、そこで対立が起きてしまいます。

3. 儀式・儀礼・習慣への執着

どんな宗教にも、何かしらの儀式・儀礼があります。それぞれの宗教に、それぞれの宗派に、独自の儀式・儀礼があって、それぞれ、彼らにとっては大切な意味があります。けれども、多くの宗教が、儀式・儀礼に執着しすぎるあまり、分裂したり争ったりしています。

宗教の世界に限らず、会社でも、学校でも、スポーツの世界でも、家庭でも、恋人同士でも、何らかの儀式をつくりだして、そこに執着すれば、対立が生まれます。

会社や学校で行われる朝礼、夕礼、入社式、入学式、表彰式、卒業式といったものから、家庭や個人間で行われる、誕生日、記念日、冠婚葬祭にまつわるものまで、儀式・儀礼への執着が、対立や離別のきっかけとなる事例は、枚挙にいとまがありません。

さらに私たちは、日々の習慣、ルーティーンへも執着します。毎日の習慣は、悪いことではありません。けれども、習慣に必要以上にしがみつくと、それが他人との対立や、生きづらさになったりします。

個人の習慣は、自分一人で、気ままに生活しているときはあまり問題になりませんが、結婚したり、親子二世帯で住んだり、寮に入ったりして、集団生活をすると、自分の習慣が他人との対立の原因となってしまうのです。

4. 我論への執着

この執着は、これまで見てきた3つの執着のどれよりも強く、上記すべての執着の土台となる、 ラスボス。最強の執着です。

ラスボスの正体は……なんと「私」。自我、エゴとも呼ばれる、執着です。私=自我=エゴとは、「この宇宙で自分が一番!」という感覚です。

一番かわいい、一番優れている、一番大切といったポジティブなものであっても、一番ダメ、一番キライ、一番最低、といったネガティブなものであっても、どちらもエゴです。自分を「特別」な存在と感じたい、「私」を求めて止まない感覚が、エゴなのです。

冒頭に、お釈迦さまが説かれた4つの執着は、1から4に向かって、より根深く、気付きにくく、手放しにくくなっていく、と述べました。その理由は、1の欲への執着は、まだ可視化しやすく、客観視しやすいのですが、2から4にかけては、どんどん自己同一化していくからです。

例えば、自分の家や車は大切だけれど、自分と一体、だとは思わない。けれども、自分の意見や見解は、時として自分と一体になってしまう。自分が信じている宗教や、継続している儀式・儀礼・習慣は、自分と一体化してしまう。

だから、それらを否定されると、あたかも自分が否定されているように感じてしまい、怒り、妬み、恨み、落ち込み、悩み、苦しむのです。そのベースにある執着が、私という、強烈なエゴなのです。

執着を手放して、恵まれた人間関係を取り戻すための4つのステップ

どうでしょうか。お釈迦さまが説かれた4つの「執着」。もしあなたが孤独を感じているとしたら、いずれかの執着に、身に覚えがあるのではないでしょうか。

でも、大丈夫です。あなたが孤独の理由を知り、執着を手放したとたんに、他者との葛藤が減り、恵まれた人間関係が出現します。

以下は、執着を手放して、よりよく生きるための4つのステップです。

  • ステップ1: 自分の孤独感を認める。生きづらさを認める。
  • ステップ2: 孤独の原因が、執着であることを理解する。
  • ステップ3: 4つの執着を知って、それらを手放せば、孤独は解消されることを、理解する。
  • ステップ4: 執着の根源は「私」という自我であると知り、理性をもって執着を手放す。

「欲しい」という衝動が生じたら、それが自分にとって、必要か必要かを冷静に見極め、不必要な欲なら、サッサと捨ててしまいましょう。「意見・見解」、「儀式・儀礼・習慣」についての対立が起きたなら、自分と、自分の意見・信条を切り離して、冷静に対処しましょう。

自分の意見は持ってもいいのです。自分の見解を述べてもいいのです。けれども、相手の意見も聞きましょう。相手が自分より若い、年上である、女性である、男性である、外国人である、などという偏見に気をつけて、相手の意見を聞きましょう。

「家族だから、恋人だから分かってもらえる」という甘えや、「自分の意見を通したい、というわがまま」を見つめながら、相手の意見を聞きましょう。そして、「自分の意見が間違っている可能性もある」ことに気をつけて、よく話し合うのです。

孤独の理由は、意見をもつことではありません。自分の意見に執着して、他の話を聞かないことです。孤独の理由は、儀式・儀礼・習慣ではありません。自分が信じる儀式・儀礼・習慣に執着して、他を認めないことです。孤独の理由は、「あなた」ではありません。あなたが、あなた自身の「我」に執着して、他への思いやりを忘れてしまうことです。

どうか、諸行無常の原則を忘れないでください。世の中はどんどん変わります。私たちを取り巻く環境も、私たち自身も、どんどん変わっています。だから、自分の考えも、習慣も、どんどん変わっていいのです。

自らの執着にしばられて苦しみ続けるよりも、素直に、柔軟に、善き意見、善き習慣を取り入れて、生活の質、人生の質を高めるほうが、ずっと幸せになれるのですから。