富士通は1981年5月20日、同社初のパーソナルコンピュータ「FM-8」を発売。2021年5月20日で40年の節目を迎えた。FM-8以来、富士通のパソコンは常に最先端の技術を採用し続け、日本のユーザーに寄り添った製品を投入してきた。この連載では、日本のパソコン産業を支え、パソコン市場をリードしてきた富士通パソコンの40年間を振り返る。掲載済みの記事にも新たなエピソードなどを追加し、ユニークな製品にフォーカスしたスピンオフ記事も掲載していく予定だ。その点も含めてご期待いただきたい。
華々しく幕を開けたものの、販売に急ブレーキがかかった「FM TOWNS」
1989年2月28日に発表された「FM TOWNS」の発売直後の盛り上がりは、異常ともいえるものだった。事前に行われたティーザー広告や、東京ドームを会場にした電脳遊園地の開催予告、さらには、発売と同時に東京・秋葉原、大阪・日本橋の電気街では約300台のFM TOWNSを店頭に展示。富士通の山本卓眞社長(当時)も自ら、秋葉原の店頭へ販売応援に駆けつけるという力の入れ具合だった。まさに全社をあげた一大プロモーションによって、FM TOWNSの販売は幕を開けたのだ。
その成果もあって、発売からわずか2日後には、1,000台を受注するという出足の良さを見せた。専用の問い合わせ窓口として新設した「TOWNSインフォメーションセンター」には電話が集中したため、回線数を増強して対応。パソコンショップに用意されたFM TOWNSのカタログが1日でなくなるという状況に、販売店の現場からは「過去の富士通のパソコンでは見られなかった現象」といった声もあがる。こうした動きを目の当たりにした競合他社は、「TOWNS対策会議」を急遽開くという慌てぶりだった。
富士通は、FM TOWNSの発売1カ月で8,000台を生産し、1989年4月25日までに累計出荷は1万9,000台に到達。初年度10万台の販売目標にむけて順調なスタートを切った。しかし、その勢いは長くは続かなかった。
5月以降は出荷に急ブレーキがかかり、5月末時点で累計2万1,000台の出荷に留まってしまったのだ。逆算すれば、5月の出荷はわずか3,000台だったことになる。原因となったのは、ソフトウェアの品ぞろえ不足だ。
5月時点でTOWNS用CD-ROMソフトは52本まで増加していたが、FM TOWNS向けに同時開発された「アフターバーナー」(CSK総合研究所)など人気ソフトウェアの需要も一巡。音と映像を多用した新たなソフトウェア開発に、想定よりも時間がかかったソフトウェアメーカーが多かった。これが、当初の計画に比べてソフトウェアの十分な品ぞろえの遅れにつながった格好だ。
このころ、NECのPC-9800シリーズ向けに用意されていた32ビット向けアプリケーションはすでに100本以上になっており、以前からのPC-9800シリーズ向けソフトウェア資産を加えると、FM TOWNSとの差は歴然となっていた。また、FM TOWNSは家庭で利用するホームコンピュータというコンセプトを打ち出していながらも、本体、ディスプレイ、キーボードのシステム価格で50万円前後という価格設定だったことも、販売の減速にジワリと影響しはじめた。鳴り物入りで登場し、話題を集めたFM TOWNSであったが、残念ながらわずか3カ月で失速してしまったのだ。
起死回生の策
だが、富士通は諦めなかった。FM TOWNS向けに、その後も起死回生の策に取り組んでいった。
例えば、教育現場での利用を促進するため、中学校や高校の約200校に200台のFM TOWNSを貸与。これはマルチメディアと教育という方向性が合致し、FM TOWNSの主要市場に育つことになる。
1991年に富士通が教育分野向けに出荷したパソコンのうち、約50%はFM TOWNSだ。このとき富士通は教育市場全体で約4割強のシェアを持っており、そこから逆算すると、市場全体の約2割がFM TOWNSだったことになる。名古屋市の小中学校には約1,300台のFM TOWNSが導入されるなど、大量導入の実績も出ていた。また、主婦層をターゲットとした広告展開など顧客層の拡大にも努め、ハイパーレディースセミナーをはじめとして女性を対象にした販促活動も積極的に行っていた。
1989年11月には、後継機となるFM TOWNS 1H/2Hを発売。ハードディスクを搭載するとともに、CD-ROMドライブのオープン時にディスクが飛び出すという不具合を修正した。さらに同月、開発者とアニメーター、シナリオ作家といった異業種交流の場であるTOWNSコンソーシアムを開設。1990年4月には、富士通が得意とした教育分野に特化したモデルを投入。
5月には、ソフトウェアの開発を促進するため、ソフトメーカーの技術開発拠点であるハイパーメディア開発センターを東京・新橋に設置。シムシティなど海外人気ソフトの移植を富士通が自ら行う取り組みも開始した。これにより、課題となっていたソフトウェア不足の解決を図ろうとしたのだ。
富士通はFM TOWNSの発売前にも、ソフトウェアメーカーに開発用のFM TOWNSを貸与し、対応ソフトウェアの開発を支援していたが、発売後もソフトウェアのさらなるラインナップ強化に向けた動きを加速した。しかし、時間がかかりすぎたのは否めない。当時、あるゲームソフトメーカーの幹部は、「フロッピーディスクのゲーム開発と比べて、CD-ROM版の開発は期間で1.5倍、コストで2倍かかる」と語っていたことを思い出す。
ハードウェアが売れなければ、ソフトウェアが開発されず、ソフトウェアが開発されなくてはハードウェアが売れないという負の循環に陥る。当時の富士通の関係者は、「ハードウェアを先行させ、ソフトウェアの充実を待とうと考えたが、市場はそれを待ってくれなかった」と振り返る。それでも富士通は、1990年11月までに305本の専用CD-ROMソフトウェアをそろえて見せた。
だが、FM TOWNSの初年度となる1990年3月までの出荷実績は7万台。当初掲げた初年度10万台の数字を達成したのは、1990年12月。半年以上遅れての達成となった。ちなみに富士通は、1989年6月20日に全社のシンボルマークを変更している。FM TOWNS第1号機の富士通ロゴは、「FUJITSU」の上下に線が入るものだったが、その後の製品では現在の「インフイニティマーク」と呼ばれるロゴへと変更されている。
加えて富士通は、FM TOWNSのシステムルート販売も推進した。トヨタ自動車の総合ショールーム「アムラックス・トヨタ」では、JAFドライブガイドをFM TOWNSで稼働させて、来場者サービスに活用。大阪・天王寺の近鉄百貨店本店ではFM TOWNSを利用した「AIソムリエ」がワイン売り場に登場して、世界のワイン選びを支援。神戸の大丸神戸店では、ブライダルコーナーにFM TOWNSを設置して、ブライダル診断を実施。カップルに親しみやすい売り場づくりを実現した。いずれも、FM TOWNSの音と映像の強みを生かしたものだった。富士通によると、1991年12月までに、約2,000社にFM TOWNSが導入されたという。
FM TOWNSは、その後も進化を続けた。1990年10月30日には、本体価格で29万8,000円と、約20%の低価格化を実現したモデル「10F」など2機種4タイプを発売。宮沢りえをキャラクターに起用したほか、1991年9月には累計出荷で16万台、TOWNS専用ソフトウェアは約450種類に増えていた。
1991年11月5日には「FM TOWNS II」を発表し、10型ティスプレイが一体となったモデル「UX」も追加した。UXは、従来モデルと比較して設置スペースを半分にし、勉強机や書斎机でも利用できることを訴求。同時にネットワーク機能を拡充し、ビジネス分野への展開を強化する方針も明らかにした。このときのイメージキャラクターには観月ありさを起用した。
「FM TOWNS MARTY」登場、車載向け「CAR MARTY」も
1993年2月16日には、家庭のテレビに接続して使える「FM TOWNS MARTY(マーティー)」を発表。「家庭の中心にあるテレビが、学習や家族の新しいコミュニケーションに役立ち、CD-ROMによるマルチメディアソフトを、テレビの新しい『チャンネル』、『番組』として提供する」という提案を行った。
開発コンセプトは、テレビにつなぐ「情報ブレーン」だ。ニュースリリースでも「パソコン」という言葉を一切使わずに、「プレーヤー」という表現を用いていたのは興味深い。FM TOWNSは創造するためのツールであるのに対して、FM TOWNS MARTYは再生するためのツールという位置づけを明確にしたのだ。富士通の社内では一時、「FM TOWNS ジュニア」という名称も検討したというが、FM TOWNSとは別のカテゴリーに成長させることを目指して、「マーティー」の名称を付けたという。
富士通の社内では以前から、FM TOWNSのソフトウェアを再生する専用機を開発したいという考えがあった。実現に向けた機運が高まり、ようやく開発に着手したのが1992年4月。テレビにつなげる手軽さを生かしながら、家庭にFM TOWNSを普及させるという狙いもあった。
ただ、開発上のハードルは高かった。テレビに接続しても、FM TOWNS用ソフトウェアならではの表示能力を持たせるための技術開発が必要だったからだ。当時のゲーム専用機の解像度は低く、そのレベルではFM TOWNS用ソフトウェアの魅力を表現できなかった。そこでFM TOWNS MARTYでは、富士通が独自に開発した「LIST(Line Interpolation Scanning Technology)」方式による、世界初となるフルデジタル方式1チップビデオコンバータを搭載。テレビでも、640×480ドットというPC用ディスプレイ相当の高精細表示ができるようにしたのだ。この技術が、FM TOWNS MARTY の製品化を決定づけた。
FM TOWNS MARTYの価格は9万8,000円(税別)。家電量販店やパソコンショップだけでなく、新たにスーパーやデパートにも展開。小学校を中心に「テレビを利用した新しい教育機器」としても導入を促進し、1年間で20万台という意欲的な販売計画を立てた。
そして1994年4月には、富士通テンが世界初(同社調べ)のカーマルチメディアプレーヤー「カーマーティー(CAR MARTY)」を発売。FM TOWNS MARTYをベースに車載用途として開発した製品だ。スリム化、軽量化を図り、自動車のセンターコンソールへの配置を可能とした。約400種類のFM TOWNS MARTY用アプリケーションが動作し、音楽CDなども再生できた。ユーザーの93%%のナビキットも購入しており、ナビゲーションシステムとしての利用が多かったといえる。さらに、脱着式にしたことで家庭内でも使えるようになっていた。
PC/AT互換機とのハイブリッド「FMV-TOWNS」
こうした普及価格帯の製品投入もあって、1995年11月にはFM TOWNSシリーズ全体の累計出荷台数は50万台を達成。そして、1995年11月8日に発表したのが、PC/ATアーキテクチャーを採用したFMV-TOWNSであった。その名の通り、1993年10月に発売したPC/AT互換機「FMV」シリーズと、FM TOWNSを融合したパソコンだ。OSにはWindows 95とTOWNS OSの2つを搭載し、FMVシリーズとFM TOWNSシリーズのソフトウェアを利用できる環境を実現。FM TOWNS環境では、標準搭載したビデオカード機能やMIDIポートによって、FM TONWSのマルチメディア機能を踏襲した。
この時点で、FM TOWNSは単独アーキテクチャーの路線をやめ、DOS/V路線のFMVシリーズという主力製品のなかに組み込む判断をしたといってもいい。発売当初はFMR-50シリーズのソフトウェアを動かす環境でスタートし、終焉に向けては、FMVシリーズのアプリケーションが動く環境へとつなげたのだ。
FM TOWNSの終焉
FMVとの融合路線で新たな製品展開を開始したFM TOWNSシリーズは、1997年6月24日に発売した「FMV-TOWNSモデルH20」が最後の製品となった。CPUはIntelのPentium(200MHz)、32MBのメインメモリ、3.2GBのハードディスク、8倍速CD-ROMドライブを搭載し、価格は31万8,000円(税別)だった。
このとき同じスペックで、10BASE/Tの有線LANインタフェースを内蔵した教育分野向け最上位モデル「FMV-TOWNSモデルH20」(35万8,000円)も発表したが、ニュースリリースでは教育分野向けの同モデルを中心に訴求。教育分野向けに約750本のTOWNS専用アプリケーションを用意していることや、文部省(現・文部科学省)による教育用「コンピュータ新整備計画」などにより、教育分野でのパソコン利用が促進されはじめていること、コンピュータの教育利用に適したシステムをトータルで提供してきたことに加え、教育関連の展示会への出展情報についても盛り込む形で発表した。
最も大きなポイントは、一般向けモデルはすでに脇役としての扱いとなっており、ニュースリリースのメインは教育向けモデルだったこと。一般向けモデルは存在感が薄れていることを、自ら示した内容だったといっていいだろう。
FMV-TOWNSモデルH20を最後に、FM TOWNSの歴史は幕を閉じる。だが、日本のパソコン市場におけるマルチメディア化を促進したという点で、FM TOWNSがパイオニアとしての役割を果たしたのは間違いない。その後のパソコンにおける、マルチメディア機能の進化に大きな影響を与えたエポックメイキングなパソコンがFM TOWNSであった。