富士通は1981年5月20日、同社初のパーソナルコンピュータ「FM-8」を発売。2021年5月20日で40年の節目を迎えた。FM-8以来、富士通のパソコンは常に最先端の技術を採用し続け、日本のユーザーに寄り添った製品を投入してきた。この連載では、日本のパソコン産業を支え、パソコン市場をリードしてきた富士通パソコンの40年間を振り返る。掲載済みの記事にも新たなエピソードなどを追加し、ユニークな製品にフォーカスしたスピンオフ記事も掲載していく予定だ。その点も含めてご期待いただきたい。
1981年5月に富士通として初のパーソナルコンピュータ「FM-8」が発売されるまでの期間、富士通社内では様々な部門でパソコン開発プロジェクトが推進されていたという。多くの企業が、社内で競わせながら、より優れた製品を開発することを目指していた時代でもあり、富士通の初期のパソコン開発もその手法が用いられていた。
真っ先に製品化へたどり着いたのは、マイコンキット「LKIT-8」で実績を持つ半導体事業本部が開発したFM-8であった。だがもうひとつ、この時期に製品化されたパソコンがある。FM-8と同じ年の1981年、10月14日に発売された「FACOM 9450」だ。
本格的なビジネスユース向けパソコンと位置づけられたFACOM 9450は、富士通のメインフレーム「FACOM」ブランドを冠することからもわかるように、電算機事業本部が開発した。半導体事業本部が開発した「FM-8」とは出自が異なる。ただ、9000番台の型番は、「ダム端」と呼ばれたメインフレーム向けディスプレイ端末などに与えられるものであり、事業部内における当初の位置づけは決して高くはなかった。
FACOM 9450は、オフィス向けの16ビットパソコンとしては初めての70万円台となる、75万円で発売。これにプリンタ(18万円)、ソフトウェア(5万円)を加えたスタンドアロン標準構成で98万円。100万円を切る価格で購入できた。
エンドユーザーがプログラミングなしで利用できる表計算ソフト「EPOCALC(エポカルク)」や、ネットワークシステムの構築を容易にする各種オンラインパッケージも提供。スタンドアロン端末として、オフィスの事務処理からメインフレーム連携処理まで、活用範囲は広かった。
当時の富士通では、「EPOCALCを利用することで、これまで紙や鉛筆、電卓を使って手作業で行っていた事務的な計算や作表が、ディスプレイを見ながら簡単なコマンド操作で行える」としていた。加えて、FACOM Mシリーズをはじめとしたホストコンピュータのデータベース照会、ファイル伝送、リモートジョブエントリーや、1台のコンピュータを複数のユーザーが効率的に利用するTSS(タイムシェアリングサービス)にも対応。「FACOM 9450は、豊富なパッケージによって本格的なオンラインシステムを容易に実現できる」と位置づけていた。
言語には、画面制御機能やレコード定義機能などを持つリアルタイムBASIC-Bと、科学技術計算用として2進浮動小数点演算が可能なリアルタイムBASIC-Sを用意。富士通独自のOSを開発・搭載したことで、ユーザープログラムとユーティリティプログラムといった別々のジョブを同時に処理する「2ジョブ機能」、並行処理や優先処理が可能な「マルチタスク機能」も実現していた。
高いハードルの商談によって、FACOM 9450は生まれた
FACOM 9450が開発されるきっかけとなったのは、1978年秋に保谷硝子(現・HOYA)から持ち込まれた1,500台の端末を導入するという大型商談であった。保谷硝子からのおもな提案内容は以下の4点。
- マルチジョブ、マルチタスクの実現
- オンラインでの使用を前提としていること
- 5年間は陳腐化しないシステムであること
- 価格は100万円以下であること
当時、同等の性能を持ったインテリジェントターミナルは350万円前後が一般的だったなかで、100万円以下の「パソコン」を作ることは極めて高いハードルだ。だが、事業部にはひとつのプランがあった。
富士通と松下電器産業(現・パナソニック)などによって設立されたパナファコム(現・PFU)が、1978年に16ビットパソコン「C-15」を発表。1979年にはエンハンスモデルとして「C-15E」を発売し、生命保険会社や医薬品メーカーなどに導入した実績を持っていた。これをベースに開発を進めるという手段だ。富士通は、パナファコム、保谷硝子との3社による共同開発という体制で、1979年4月から開発をスタート。その結果、FACOM 9450の前身となるパソコン「HIT80」が誕生した。
FACOM 9450の登場までには、もうひとつエピソードがある。FACOM 9450は1981年10月発売だが、1979年秋に「パーソナルターミナル9450」という製品が富士通から発売されている。一般向けには発表しなかった製品で、大手企業からのロット商談だけに対応するという位置づけの製品だ。富士通がこの存在をあまり公にしなかったのは、約100万円という低価格を実現したパーソナルターミナル9450を積極的に販売すると、安定的なビジネスを行っていた高価格帯のインテリジェントターミナルの売れ行きに影響する可能性があると判断されたからだろう。パーソナルターミナル9450は価格競争力を持った製品ではあったものの、販売戦略においては宙に浮く存在になってしまったのだ。
しかし、1981年1月。この製品をそのまま終焉させたくないと考えた製品担当者の強い意志が、電算事業部門を統括していた成田清専務取締役(当時)の気持ちを動かした。1981年になると、パソコンを社内業務のツールとして活用する動きが加速。パソコンの性能や拡張性が求められ始めると同時に、オフィスで誰もが使えるパソコンに対するニーズが高まってきたことも決断を後押しした。
「ワンポイントリリーフ。そんな位置づけでもいいのならばやってみなさい」と成田氏は答え、FACOM 9450の事業は正式にスタートすることになる。ところが、事業トップの許諾を得たあとの動き方は「ワンポイントリリーフ」というものではなかった。
生産はパナファコムが担当するとともに、同じ仕様のパソコンをパナファコムが「C-180」として販売することが決定したのだ。パナファコムのC-15をベースに開発したHIT80が9450に進化し、それがC-180として戻ってきた構図だ。
FACOM 9450の初年度の販売目標は10,000台。当時のニュースリリースにも、3年間で30,000台を販売するという意欲的な数字が書かれている。加えて発売にあわせて、「FACOM 9450サポートセンター」を東京・大阪をはじめ全国の主要営業所に設置。電話やオンサイトによるサービスを行ったほか、1981年11月からはFACOM 9450に関するパソコン教室を開講し、プログラム開発やソフトウェア障害対応などのサポートも行う体制を敷いた。ここでは、富士通が持つ全国110カ所のCE拠点も活用。電算機事業本部ならではの体制を活用した点も見逃せない。
実は、FACOM9450およびC-180の開発、製造、販売チームに共通した認識だったのは、「技術者が作ったパソコンではない」という点だった。もともとの生い立ちが保谷硝子のニーズをもとに誕生したものであり、その後も、大手企業への導入を経て、それらの声をフィードバックして進化を遂げていったパソコンだったからだ。
当時、FACOM 9450を500台以上の規模で導入していた企業には、カネボウ、ホンダ、ダスキン、第一勧業銀行などがあった。こうした導入企業からの声を聞いて製品が生まれ、進化する仕組みは、現在の富士通クライアントコンピューティングが目指している「人に寄り添うコンピューティング」に通じるものがある。FACOM 9450でスタートした「市場の声を聞くモノづくり」の姿勢は、FM-8登場からの40年間にわたって崩れていないというわけだ。
FACOM 9450は、1983年4月に発売したFACOM 9450IIへと進化。さらに、1985年5月にはFACOM 9450Σ、1986年1月にはFACOM 9450Λを発表。その後はラップトップ型にも品ぞろえを広げていったが、1989年にはFMRシリーズにその機能を統合していくことになる。FACOM 9450シリーズの累計出荷は約25万台に達した。
コンピュータの天才だった富士通の池田敏雄専務取締役
ここで、紹介しておきたい逸話がある。
FACOM 9450の前身となったパナファコムの「C-15」、そしてFACOM 9450と同じ仕様のパソコンとしてパナファコムが発売した「C-180」といった製品名でもわかるように、パナファコムはパソコンの型番の最初に「C」をつけてきた。この「C」には、「コンピュータの天才」として、国産コンビュータの実現に大きく貢献した富士通の池田敏雄専務取締役(当時)の意思が込められているのだ。
パナファコムの設立に強い熱意を持っていた池田氏は、将来のパソコンの誕生にも期待を寄せていた。池田氏が亡くなったのは1974年11月、まだパソコンが登場する前の話である。
ある日、池田氏は「ワンチップマイコンが進歩すれば、コンピュータは様々な場所で使われるようになる。例えれば、マイコンは細胞みたいなものである」と語ったという。コンピュータの細胞ともいえるマイコンを搭載したのがパソコンである。パナファコムがパソコンの型番に「C」を採用したのは、池田氏の言葉をもとに細胞である「CELL」を語源にしたからだ。つまり、富士通が手がけてきたビジネスパソコンの流れのなかには、富士通のコンピュータ事業を作りあげた池田敏雄氏の想いが受け継がれている。
FACOM 9450は、発売から10年を待たずに終焉した短命のパソコンであったともいえる。FACOM 9450の発売時に社長を務めていた山本卓眞氏はこのように語る。
「メインフレームの世界では互換性が重要だといって、IBMと競っていた。だが、ビジネスパソコンの世界では正反対のスタンスをとっていた。富士通が、ビジネスパソコンの領域でFACOM 9450という独自仕様のパソコンを投入したことで、MS-DOSに対応したパソコンの事業化に後れをとった。オープン環境のビジネスパソコンに出遅れたのは私の失敗だった」
対抗するNECは、1978年の時点でパソコン用OSの自社開発は無理だと判断して、マイクロソフトのOSを採用することを決めた。その後のPC-9800シリーズでも踏襲され、ビジネスパソコンの領域で「ガリバー」と呼ばれるほど、圧倒的なシェアを獲得する存在になった。
富士通は、メインフレームで培った技術力の高さから、ビジネスパソコンでは自らOSも開発したわけだが、結果としては仇となった。1984年には、OSにCP/M-86を搭載し、のちにMS-DOSを採用したビジネスパソコン「FM-16β」を発売したが、すでに勢いを加速していたPC-9800を止めることはできず、その差は開くばかりだった。
上記の山本氏は、メインフレームからパソコンまで幅広く事業を担当してきた経験から、「IT産業の先を正しく読むことは不可能だといっていい。だから大切なのは、間違ったときには君子豹変(ひょうへん)してでも、すぐに手を打つことである。企業のメンツだとか、社長のメンツだとかには構っていられない。メンツなんてゴミだ!」と語っていた。山本氏の姿勢は、1994年に発売したパソコン「FMV」シリーズの登場によって実証されることになる。