2000年代前半、格闘技界が熱く燃え上がっていた時代に『PRIDE』のリングで活躍したアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ。「柔術マジシャン」と称された彼の強さは格闘テクニックにあると思われがちだが、それだけではなかった。

  • ノゲイラの「折れない心」は、いかにして育まれたのか? 柔術マジシャンが11歳で味わった生死を彷徨う恐怖の体験─。

    2001年11月3日、東京ドーム『PRIDE.17』でヒース・ヒーリングを圧倒するノゲイラ(当時25歳)。判定勝ちを収め、初代PRIDEヘビー級王者となった。

強靭なメンタリティを宿していたからこそMMA(総合格闘技)の頂点に立つことができたのだ。「折れない心」は、いかにして育まれたのか?
「あの時のことを思えば、どんな苦難にも立ち向かえる」と彼は言う。11歳の時にノゲイラを襲った大惨事とは─。

■まさかの惨劇

ブラジル・バイーア州南部に位置するヴィトリア・ダ・コンキスタは、人口約30万人の緑豊かな田舎町。ここでアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラは生まれ育った。
果実を取るために木に登り、牧場で牛と遊び、馬の背中にも跨る。自然の中で運動能力を身につけながら、彼はスクスクと成長した。

そんな彼が、生死を彷徨う事故に遭遇したのは、11歳の時。
ある日、仲間の家でパーティが開かれることになった。これに誘われたノゲイラは、仲間たちとともにトラックの荷台に乗せてもらいパーティ会場に向かう。双子の弟・ホジェリオも一緒だった。

トラックが目的地に到着。仲間たちが次々と荷台を離れ、最後にノゲイラが道に飛び降りた。その直後に惨劇は起こる。
急にトラックがバックし始めたのだ。それに気づかなかった彼はトラックの後輪に巻き込まれてしまう。左肩から左足まで魅かれタイヤの下敷きになった。 ホジェリオが慌てて駆け寄り救い出そうとする。だがすでに、ノゲイラのカラダは壊されていた。

「あの時は、頭部をタイヤから遠ざけることで精一杯だった。トラックの重さがお腹にかかってきた時の感覚は、いまでも忘れられない」
事故当時をノゲイラは、そう振り返る。

すぐに病院に運ばれたが昏睡状態に陥る。
折れたアバラ骨が横隔膜に突き刺さり、肺と肝臓に大きなダメージを負っていた。左足も複雑骨折。4日間もの間、意識が戻らなかった。
「生命が危ないかもしれない」。
この時、医師は彼の両親にそう告げている。

  • PRIDEヘビー級のチャンピオンベルトを腰に巻いたノゲイラ。リング上でアントニオ猪木から祝福を受ける(2001年11月3日、東京ドーム『PRIDE.17』)。

■医者は言った。「奇跡だ」

辛うじて命は取りとめた。
だが今度は医師から、こう言われる。
「一生歩けなくなる可能性が高い」
それを聞いたノゲイラは、絶望的な気持ちになり塞ぎ込む。だが、それほど時間をかけずに気持ちをポジティブな方向へと切り替えた。
(歩けるようになる可能性がゼロではない。自分を信じてこの苦境と闘おう)
そして、必死にリハビリに励んだ。

「苦しくて辛かったね、でも諦めなかったよ。医者からはいろんなことを言われたけど、必ずカラダの状態は良くなると信じて毎日頑張った。
最初の頃は自分の力だけでは動けなかった。それでもリハビリを続ける中で少しずつカラダの機能が戻ってきたんだ。結局1年かかったけど完治した。カラダに違和感を覚えることなく走って跳ぶこともできるようになったんだ。後遺症も、まったく残らなかった」

死の淵から生還したノゲイラは続ける。
「医者からは『奇跡だ』と言われたよ。あの時、私は神の存在を信じることができた。そして、自分にバイタリティと忍耐力が備わったと思っている。
自分を追い込むハードなトレーニングをしている時も、試合中に苦境に立たされた時も、事故にあった当時に比べれば大したことではないと感じられる。だから、試合中に心が折れたことは一度もないんだ」

  • PRIDE参戦2戦目でマーク・コールマンと対戦。腕ひしぎ十字固めを決め勝利した(2001年9月24日、大阪城ホール『PRIDE.16』)。

事故から6年後、17歳の時に彼は『第1回UFC』でのホイス・グレイシーの活躍に衝撃を受ける。すぐに柔術を始め急成長、総合格闘技の舞台へと向かった。
「天才肌」とのイメージが色濃くあるアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ。
だが、それだけではない。「折れない心」を持ち続けられたからこそ強くなれたのだ。そこには、少年時代の苛烈な体験が大きく影響していた。

<皇帝ヒョードルに勝てなかったノゲイラ。だが4度目の対決が実現していたなら─。 >に続く

文/近藤隆夫、写真/真崎貴夫