富士通は1981年5月20日、同社初のパーソナルコンピュータ「FM-8」を発売。2021年5月20日で40年の節目を迎えた。FM-8以来、富士通のパソコンは常に最先端の技術を採用し続け、日本のユーザーに寄り添った製品を投入してきた。富士通の公表数字をもとに算出すると、40年の間に出荷したパソコンは、累計で1億4,000万台の規模に達する。
かつて富士通の社長と会長を務め、自らもパソコン開発に直接携わった経験を持つ富士通の山本正已シニアアドバイザーは、「富士通は技術の会社であり、その技術力をベースに世界一を目指すというDNAがある。どんな製品でも、どんな困難があっても、世界一を目指す姿勢を持っている」と前置きし、「富士通のパソコン事業の40年間は、自ら設計・開発・生産することで最先端の技術を採用し、高い信頼性を実現するとともに、創造性が高いエポックメイキングな製品を世に送り続けてきた歴史と言える。それによって、富士通らしいと言われるパソコンを長年にわたって作り続けることができた」と語る。
今回の連載では、日本のパソコン産業を支え続け、パソコン市場をリードしてきた富士通パソコンの40年間を振り返る。なお、掲載済みの記事にも新たなエピソードなどを追加し、ユニークな製品にフォーカスしたスピンオフ記事も掲載していく予定だ。その点も含めてご期待いただきたい。
「FUJITSU MICRO 8(FM-8)」とは
1981年5月20日に富士通初のパーソナルコンピュータ「FM-8」が発売となった。正式名称は「FUJITSU MICRO 8」であり、初めて「FM」の名を冠した製品だ。FMシリーズの冠は、40年を経過した現在でも「FMV」として使われているのは周知の通りだ。日本で最も歴史を持つPCブランドだと言える。
製品発表時には「半導体ビジネスで培った信頼の技術を結実させた製品」と富士通が表現したように、FM-8は2CPU方式を採用するとともに、64KbitダイナミックRAM×8個を実装。ユーザーメモリ領域として64KBを確保するために、アドレス空間を128KBに拡張するなど、「最新鋭のLSIを随所に使用した贅沢な設計を行ったパソコン」(富士通)として登場した。
当時、販売店やユーザーの間では「重戦車並みの装備」とも言われ、性能の高さは折り紙付きだった。CPUには、モトローラ「MC6809」互換の8ビットマイクロプロセッサ「MBL6809」を2個使用。正式には、メインCPUに「MBL68A09(1.2288MHz)」、サブCPUに「MBL6809(1MHz)」を搭載していた。
メインCPUの選択においては、開発当初から、自社開発していたモトローラ互換チップを搭載することが前提となっていたが、世界的な流れを見ると、Z80系が主流になりつつあり、これを無視できないと判断。本体内にはZ80のカードを搭載できるようなコネクタを設け、多くのソフトウェアが利用できる環境も用意していた。
ソフトウェア環境としては、マイクロソフト「Microsoft BASIC」に各種機能を追加した「F-BASIC」をマスクROMで実装。UCSD PASCAL、FLEX、CP/MといったOSも、フロッピーディスクを通じて利用できた。
FM-8はシステムの拡張性にもこだわった製品だ。オプションのCRTディスプレイやミニフロッピーディスクドライブのほか、市販のオーディオカセット、家庭用テレビとの接続も提案。CRT制御にはサブCPUを用い、640×200ドット表示のドット単位で8色の色指定を可能とし、高分解能のカラーグラフィック表示能力を持っていた。
漢字キャラクターユニットやプリンタも用意しており、JIS第一水準漢字(2,965字)のほか、ひらがな、カタカナ、アルファベット、数字、特殊記号など、453字の表示、印刷が可能だった。さらに、32KBのバブルカセットを2台まで同時に使えるバブルホルダーユニット、ライトペンやプロッタ、標準フロッピーディスクドライブ、10MB・20MBのマイクロディスクも用意。別売りの拡張ユニットと各種モジュールを接続することで、音声合成、計測制御、高速演算といった用途にも利用できた。
また、キーボードには、機構部品事業部が持っていた高品質、高信頼のキースイッチ技術をベースに、パソコン向けに最適化したものを開発してみせた。
1981年当時、富士通で電子デバイス事業を統括していた安福眞民氏(のちに富士通副会長、富士通ゼネラル社長)は、「FM-8は斬新な設計と、最新の半導体技術を採用した製品。RS-232Cインタフェースを装備し、メインフレームのFACOM Mシリーズとの接続も可能にしていた」と発言。富士通ではFM-8を、「ホビー用途に加えて、オフィスの事務処理、商店の経営管理、科学技術計算、教育ツールなど、あらゆる分野で利用してもらうために、機能の多角化とシステムの拡張性を高めた。広範なユーザーニーズに応えられるように開発した最新鋭のパーソナルコンピュータ」と位置づけた。高い基本機能や拡張性の追求は並大抵のものではなかった。
なぜ、電子デバイス部門がパソコンを開発したのか
FM-8は、富士通の電子デバイス部門で開発された製品だ。当時は、米国でパソコンブームが到来しはじめるなか、富士通社内でもパソコンの生産化に向けた議論が進められ、電子デバイス部門やコンピュータ部門など、複数の部門から製品に向けたプロジェクトが提案されていた。社内調整の結果、8ビットマイコン「LKIT-8(エルキットエイト)」の開発、販売で実績を持っていた電子デバイス部門がパソコンの開発を担当することになった。
しかし当初は、電子デバイス部門内でもパソコン開発に向けて一枚岩だったわけではない。製品化に反対する声もあり、とくに「何に使われるのかわからないものが何台売れるのか」、「事業計画は練られているのか」など、ビジネスとして成立するのかといった点を疑問視する声が集まっていた。
こうした意見を一蹴したのが、安福氏のひとこと。
「パソコンを最も開発しやすい部門は電子デバイス部門だ。電子デバイス部門がやらなくてはどこがやるのか」
この言葉をもとに、電子デバイス部門は強い意志を持って、パソコン開発に向けた準備を開始。社内の関係部門との調整や、外部からの情報収集などに取り組んでいった。
安福氏は、開発チームになるべく自由に開発をさせるようにした。様々な部門から集められた社員の経験を生かしたモノづくりを進めたのだ。そうしてみると、メインCPUとサブCPUという2CPU方式も、自由な発想があったからこそ生まれたものといえよう。
「パソコンづくりの経験者は誰もいない。開発者たちが侃々諤々(かんかんがくがく)と意見を戦わせながら、FM-8を作り上げていった」(安福氏)
もともと個人向けの製品を作ったことがない富士通にとって、市場に最も適した風土を持っていたのが電子デバイス部門――という経営層の判断もあっただろう。絶対に止まらないことが求められるメインフレームの開発に携わってきたコンピュータ部門では、2CPU方式などの発想は生まれなかったかもしれない。その点では、電子デバイス部門にパソコンの開発を任せた経営層の判断は、見事にはまったといえるだろう。
とはいえ、開発がスムーズに進んだわけではない。開発段階においては、バブルカセットに放熱の課題が発生。筐体にスリットを入れて解決したり、外部ノイズを抑えるために静電塗料を塗布したりするなど、設計も大きく変更した。また、チップセットもゲートアレイもない時代であり、基板には多くのジャンパー配線を施していたという。こうした未体験の失敗を繰り返し、課題を解決しながら、製品化につなげていったわけだ。「結果として、あきらめたものはひとつもなかった」と当時の開発者は語る。
FM-8には「64KbitダイナミックRAM×8個」を実装しているが、これも思わぬ課題を生んだ。開発チームは、最新の技術を活用するという狙いからこのメモリを採用したのだが、電子デバイス部門において、さらに主力となる外部企業への販売においても、当然ながらこの最新メモリに対する需要が最も高い。FM-8よりも外販に回すことが優先されるため、常にFM-8のデリバリーが遅れがちになるという、開発チームが想定しなかった初歩的ミスといもえる状況も生まれていたのだ。
また富士通は、FM-8にマイクロソフトの「Microsoft BASIC」を搭載することを決めていた。パソコン市場で先行するNECがMicrosoft BASICを採用するなど、事実上の業界標準になっていたからだ。だが、マイクロソフトからこのソースコードが手渡されたのは、1981年2月のことだった。しかも、そのすべてが紙にプリントアウトされた状態だったのだ。
ソースコードは約3万5,000ステップにもおよんだという。開発チームは約2週間かけてソースコードを解析し、FM-8向けに「F-BASIC」として移植。デモプログラムも、アセンブラによって完成していたものをBASICで書き直すという突貫作業によって、FM-8の実機を初披露した1981年5月のマイクロコンピュータショウ '81の出展に間に合わせたというエピソードが残っている。
ちなみに、Microsoft BASICの容量は約24KBだったが、F-BASICは約32KBとなり、ディスク制御部分はこれとは別に約8KBあったという。「Microsoft BASICにも常にバグが発生するため、しょっちゅうROMを書き替えていた」(当時の開発者)と振り返る。また、FM-8のサブCPU制御コマンド(通称:YAMAUCHIコマンド)を用意するなど、独自の提案も盛り込んだ。
FM-8の開発が進むなかで、開発チームは富士通の常務会に対して、プロトタイプの進捗を提案する機会を探った。「電子デバイス部門の底力を見せようと考えた」のがそのきっかけだ。そこには、コンピュータ事業を専門とする電算機事業本部への強い対抗意識もあったかもしれない。
その機会は1981年3月に訪れた。2CPU方式による特徴などとともに、実際に絵を描くデモストレーションを行った。プロトタイプを常務会に持ち込むというのは、当時としては異例のこと。開発チームは熱によるトラブルを懸念したが、約5分間の説明は無事に終了した。
常務会の議長を務めていた富士通の小林大祐社長(当時)は、プロトタイプの完成度を見て「ともかくやってみよう」と開発チームに呼びかけた。実は、この「ともかくやってみよう」という言葉は小林社長の代名詞であり、当時の富士通の社風を表す言葉でもあった。電子デバイス部門によるFM-8の開発は、この常務会を経て製品化へと一気に加速することになる。
パソコンが普及することは分かっていた
FM-8が完成したものの、富士通には大きな課題があった。開発する力は持っていても、販売する手立てを持っていなかったのだ。
「富士通の半導体事業本部の役割は、富士通の電算機事業本部が欲しいものを開発、製造することだった。半導体を社内に売るのが専門であり、ましてや個人向けハードウェアのビジネスをやることは想定していなかった。お客さまから電話一本かかってきても、それに対応する部署すらなかった。製品を見る場所もなかった。マニュアルを用意するという発想も、カタログを作るという発想もなかった」(当時の担当者)
このとき富士通には、宣伝部が統括するショールームが東京タワーにあり、そこにFM-8の実機を持ち込んで展示した。富士通のショールームはその後、「SKYLAB(スカイラブ)」の名称で展開。ユーザー誌として「スカイラブ・シャトル」の発行や、ソフトウェアカタログなどを通じて、ユーザーへ情報提供していった。ただ、こうした取り組みの多くは、先行するパソコンメーカーを追いかける施策ばかりだったという。
ユニークなのは、このとき富士通は、FM-8本体に添付しているマニュアルを単独で別売したことだ。上層部には反対する声もあったが、想像を大きく上回る売れ行きとなった。「8ビットマイコンのLKIT-8を発売したときに、本体は購入しないが、マニュアルは欲しいという人が多かった。そこでFM-8でマニュアルを別売した。実際、FM-8のマニュアルは、本体の販売台数以上に売れた」という。
FM-8を持っている友人の家にみんなが集まり、それぞれが自分のマニュアルを持ってきて勉強することも多かったとのが理由だ。パソコン黎明期ならではのエピソードである。
一方、富士通はFM-8の発売に合わせて、パソコン専門店の特約店制度もスタートした。これがその後の「FMショップ会」につながっている。
販売店として最初に名乗りをあげたのは、アスターインターナショナル、内田洋行、関東電子機器販売、日成電機製作所の4社。FM-8のニュースリリースで「特約店は、SE、CEの技術レベルも豊富であり、FM-8の販売にふさわしい十分なサービスが提供できる」と表記していたことからも分かるように、当初は販売面においてもビジネスユースを強く意識したパソコンだった。
発売から1週間後の1981年5月27日から開かれた「マイクロコンピュータショウ '81」では、富士通のブースにFM-8を初めて展示。デモストレーションは多くの来場者からの注目を集めた。「当日、用意できたFM-8は1台だけ。開催当日の朝、会場に持ち込んだ。その1台の周りを終日、来場者に囲まれてしまう状態だった。ブースに立った担当者は3人。開発部門からは、本体から熱が発生するため来場者が触れないようにすることが徹底された。担当の3人で説明をしながら、本体をガードすることになった。大変な展示会だった」というのが当時の様子だ。
実は、FM-8の発売とともに、富士通では社内販売が実施されている。当時の資料によると、社員からの購入申し込みは500台以上に達し、目的の多くは「勉強」であったという。今後、富士通社内にパソコンが普及することを予想した社員たちが、率先してFM-8を購入したようだ。FM-8発売の翌月となる1981年6月に富士通の社長に就任した山本卓眞氏も、自宅でFM-8を使用していたことを明かしている。
ちなみに、電算機(メインフレーム)の開発者であった山本氏は、社長就任時に「大艦巨砲主義を捨て、パソコン、ワープロ、ファクシミリなどの基盤製品を充実させる」と宣言。パソコン事業を重視する姿勢を打ち出してみせたが、その第1歩がこのFM-8だ。開発時点から現場に足を運んで小型フロッピーディスクの採用をアドバイスしたり、自らもパソコンを使用し、その将来性に期待を寄せていたようだ。ここでいう「基盤製品」というのは、当時の富士通が社内で使っていた独自の用語。大型コンピュータなどのビジネスとは異なり、コンシューマニーズを含めて幅広いユーザーに使われる製品のことを指していた。
FM-8の一般購入者を対象に行ったアンケート調査の結果も残っている。それによると、FM-8の購入した目的の50%が勉強用、25%がホビー用、25%が業務用だったという。この調査結果を見た富士通社内の関係者は、「いまは勉強用に購入している人たちが多いが、その人たちが今後はパソコンを業務に使うことになるだろう」と分析。将来的には、ホビーユースよりも業務用途でのパソコン利用が広がることを、このデータから予測していた。
パソコン市場への参入自体は遅かった
振り返って、富士通のパソコン市場への参入は決して早くはなかった。日本では、1978年10月に日立製作所が「ベーシックマスター L1」を、同年12月にシャープが「MZ-80K」を発売。NECも1979年9月に「PC-8001」を発売した。1981年5月のFM-8発売は、日立のベーシックマスター L1から2年7カ月遅れ。NECのPC-8001からは1年8カ月遅いのだ。
なぜ、富士通のパソコンは市場投入が遅れたのだろうか。最大の理由は、開発チームにとって「富士通が投入するパソコン」というこだわりや意気込みがあまりにも強かった点だろう。社内にはこんな逸話が残る。
ある日、若手技術者が発売されたばかりのNEC「PC-8001」を入手し、それを見ながら社内で議論が始まった。本体の内部構造を見て出した結論が、「これならば、すぐに作れる。当分は動きを静観してもいいだろう」というものだった。裏を返せば、富士通が市場投入するパソコンは、いま市場にある製品よりも高性能であるべきだという判断を下したのだ。
FM-8に向けた社内検討は、実はかなり早い段階から準備が進められていたが、本格的に開発がスタートしたのは1980年6月のこと。半導体事業本部のなかに、マイクロコンピュータ方式部が設置されてからだ。この部門は約10人で構成され、ハードウェア担当が4人、ソフトウェア担当が4人という体制でスタートした。こうした動きをみると、他社が先行しても慌てて製品化するのではなく、富士通らしいパソコンを投入できる時期が訪れるまで待ったというのが実態のようだ。「最初から考えていたのは漢字ROMを搭載すること。富士通が投入するパソコンであれば、業務利用が前提となり、日本語処理が必要になる。その姿勢は最初から崩さなかった」と、当時の関係者は語る。
この考え方が他社から約2年遅れという結果を招いたわけだが、いま振り返れば、この「待ち」期間はプラスに働いた。技術革新が進んで64Kbit DRAMを生産する体制が確立し、日本語処理の技術革新なども見られ、富士通が目指すパソコンづくりを支える技術がそろってきたのだ。そしてなにより、パソコンを使うユーザーのスキルが高まり、パソコンの業務利用が徐々に加速。市場の熟成が進んだ点は見逃せない。
FM-8の本体価格は218,000円。PC-8001の168,000円より50,000円も高価だったが、最新技術をふんだんに採り入れたFM-8の先進性と高機能に対する評価は高かった。FM-8の後を追うように、NECが高機能モデルの「PC-8801」(228,000円)を投入したのは1981年9月。性能も価格もFM-8を意識し、急遽開発したパソコンだった。第1号機の発売では2年近い差をつけられた富士通が、パソコン高性能機の投入では先行メーカーにインパクトを与えた。それが、富士通のパソコン市場への参入であった。
ただ、FM-8は高性能を追求した結果として高価な価格設定となったことで、爆発的に売れる製品ではなかったのも確かである。販売店ではFM-8を指名購入するユーザーが多かったものの、需要の中心となっていたのは他社の10万円台半ばのパソコンだ。「時代に先駆けすぎる」という、いまにつながる富士通のパソコン事業の「良くて、悪いクセ」は、このときから始まっている。
「富士通が最初に投入するパソコンとしてのコンセプトは間違っていなかった。だが、高機能化したことで価格が上昇。パソコン事業を加速させるためには、次の一手が必要だった」と、当時の関係者は振り返る。
FM-8を開発した富士通の半導体事業事業本部では、1982年1月から新製品開発のプロジェクトチームがスタート。そこで生まれたのが、1982年11月に発売となったFM-7・FM-11だ。富士通の思惑通り、FM-7に連なる系譜が富士通を「8ビット御三家」と呼ばれるポジションへと一気に押し上げることになった。