「柔よく剛を制し、小よく大を制す」。いまから31年前、“平成の三四郎”が、柔道の神髄に挑んだ。71キロ級で闘う古賀が、体重無差別で争う『全日本柔道選手権』にエントリーしたのだ。

  • 古賀稔彦vs.小川直也__。忘れ難き「階級の壁」への挑戦!

    階級の壁を超えての闘いにも挑んだ古賀稔彦(2005年撮影/真崎貴夫)

並み居る100キロ超の巨漢選手を相手に古賀は、いかにして闘ったのか? そして苛烈な挑戦を決意した理由とは? 

■無謀なチャレンジと言われて

「本気かよ! いくら古賀でも重量級が相手では勝てないだろう」
「やめたほうがいい。潰されて大怪我を負うぞ」
古賀稔彦が『全日本柔道選手権』参戦を表明した時、世間からは否定的な声が多く聞かれた。

20歳、日本体育大学3年時に出場した1988年ソウル五輪でまさかの3回戦敗退。期待されたメダル獲得はならなかった。しかし、その後に古賀は復活を果たす。
翌89年にベオグラードで開かれた『世界柔道選手権』71キロ級で金メダルを獲得。それ以外にも出場した大会(個人戦)すべてで優勝。無敗の快進撃を続けていたのである。
そして、新たな決意をする。それは、「階級の壁」に挑むことだった。

1990年4月29日、日本武道館は、超満員の観衆で膨れ上がった。
そして、異様な雰囲気に包まれる。
「小川直也の連覇なるか」
これが本来の大会テーマだった。だが、古賀が出場を決めたことで、それが一変される。
「古賀が、重量級相手にどこまで勝ち進めるのか」が最大の関心事となっていたのだ。

古賀が会場中央に設置された試合場に登場すると、一際、歓声が大きくなる。
初戦(2回戦)の相手は日本大学出身、沖縄県警に所属する135キロの上原力。古賀は、体重差に臆することなく両腕を広げて相手に向かっていく。

だが、実はこの時、古賀の体調は最悪だった。当時はほとんど報じられなかったが、前日まで高熱にうなされていた。当日、何とか会場入りするも控室では氷嚢を頭部に当てて横たわったまま。
それでも、いざ試合となると古賀は強かった。
パワーでは劣るもスピードで相手を圧倒する。小内刈りを駆使し僅差ながら上原を判定で破った。

続く3回戦で120キロの御嶽知明(神奈川県警)、そして4回戦では自らの倍以上の体重を誇る155キロの渡辺浩稔(皇宮警察)からも優勢勝ちを収める。素早い動きと、溢れんばかりの気迫で相手を翻弄する古賀の闘いぶりに館内は沸きに沸いた。ほとんどの者が、古賀がここまで勝ち上がるとは予想していなかったのである。

だが、この時すでに古賀は疲労困憊だった。控室に戻るとすぐに床に横たわり目を閉じる。
(もう棄権した方がいいんじゃないか)
そう思った関係者も多かったという。それでも必死に闘い続ける古賀に対して、誰も何も言えなかった。
古賀は気力で立ち上がり、準決勝の舞台へと向かう。そして108キロの三谷浩一郎(近畿大)も気迫で圧倒、得意の背負い投げで体勢を崩すなど試合を優位に進めて判定で勝利を収めた。

■武道館のボルテージは最高潮

ついに決勝戦に辿り着いた。
闘う相手は、前年の優勝者で、ともに出場した『世界柔道選手権』でも95キロ超&無差別の2階級を制した「最強」小川直也。
この時、古賀と同級生である小川は思った。
「まさか(階級の違う)古賀と闘うことになるとは。それにしても重量級選手たちが情けない。でも俺は連覇を果たす。絶対にここで負けるわけにはいかない」と。

おそらくは『全日本柔道選手権』史上最高の盛り上がりを見せた決勝戦だったであろう。80年代半ばに3度行われた山下泰裕vs.斉藤仁、88年ソウル五輪95キロ超級代表を決した斉藤仁vs,正木嘉美の時よりも会場のボルテージが高かった。

開始早々、古賀は果敢に攻める。小川の懐に潜りこみ担ぎ技、足技を仕掛けていく。だが、これまでの相手のようにはいかなかった。決勝は、それまでの6分間ではなく10分間の闘い。後半に入ると、小川に奥襟を掴まれ流れを支配されてしまう。そして7分過ぎ、払い腰に耐え体勢を崩した古賀に、小川が足車を仕掛ける。これが見事に決まった。

一本!

自らの敗北を告げる声を古賀は、大の字になって日本武道館の天井を見上げながら聞いた。 一度タメ息が漏れた後、館内に万雷の拍手が響き渡る。それは連覇を果たした小川に対してではなく、大健闘した古賀へのものだった。

喜びというよりも安堵の表情を浮かべる小川。起き上がった古賀は一礼をし、静かに青畳から降りた。

この数日後、古賀は私に言った。
「正直、しんどい一日でした。でも自分で決めて出場した大会ですし、精一杯やりました。(体重無差別で日本一を決める)『全日本選手権』は柔道家として一度出てみたい大会だったんです。でも甘さが出ましたね。

負けたのは気持ちの差です。体調は関係ない。小川は絶対に連覇するという強い気持ちを持って大会に挑んでいました。でも自分は、どこまでやれるだろうと思いながら闘っていたんです。勝敗を分けたのは、その差だったと思います。再来年(92年)のバルセロナ五輪を目指す上で良い勉強になりました」

全身が痛いと言っていたが、表情は晴れやかだった。その後、古賀はバルセロナ五輪に向けて邁進する。この大会で彼がつくった「最軽量ファイナリスト」の記録は、あれから31年経ったいまも破られていない。

(次回に続く)

文/近藤隆夫