2021年3月8日から公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(以下、シン・エヴァ)。本作は新型コロナウイルス感染症拡大による緊急事態宣言のもと、その終盤においてはリモート環境で制作が行われた。しかし、公開の迫るアニメ映画をリモートで完成させるのは並大抵のことではない。
制作環境を構築するため、制作会社であるカラーは、大規模なシステムの強化やインフラの整備を実施。この制作環境構築プロジェクトで主導的な役割を果たしたのが、カラー 執行役員 技術管理統括の鈴木慎之介氏だ。
3月13日、アニメ制作におけるデジタル作画、関連技術をテーマとしたフォーラム「アニメーション・クリエイティブ・テクノロジー・フォーラム(ACTF)」が開催され、鈴木氏はその中で講演を行った。2021年のACTFは「東京アニメアワードフェスティバル(TAAF)」の一環として開催され、TAAFの会場・としまセンタースクエアからオンライン配信された。
折しも講演当日は『シン・エヴァ』公開初週の週末。スタジオカラーにおけるシステムマネジメントの現在と過去、そして未来の展望が語られた。
※編集注:取材時は『シン・エヴァ』ネタバレ解禁前だったこともあり、本稿の内容に『シン・エヴァ』のストーリーに関するものは一切ありません。
カラーのシステムインフラを立て直す
鈴木氏がカラーに参加したのは2019年のこと。同社の取締役である小林浩康氏から、システムに関する相談を持ちかけられたのがきっかけだった。鈴木氏はドワンゴに在籍しており、「日本アニメ(ーター)見本市」などの取り組みを通して、カラーとは深い関係を築いていた。
「カラーで何が起きているのか、スタジオの主要人物にヒアリングを行いました。その結果、『システムのビジョンが不在』という課題が見えてきたのです」(鈴木氏)
「システムのビジョンが不在」という表現は、システムの導入によって業務全体をどう改善していくのかが定められていなかったことを指す。その状態だと、組織に何が起きるのか。
鈴木氏によれば、「リソース不足でSEが業務をかけ持ちすることになり負荷が大きくなる」、「作品(プロジェクト)ごとにシステムが変わるため、ノウハウが蓄積されない」、「体系だった設計思想がなくエンジニアが経験不足に陥り、メンテナンスや引き継ぎができなくなる」といった事態が起こりうるのだという。
そこで、鈴木氏はシステムインフラの構築に入る前に、まずはビジョンを、さらにはビジョンを実現するための方策を提示することにした。カラーにおけるシステムのビジョンとは「作品の完成に貢献する」ことであり、そのための方策とは「クリエイティブに専念できる環境」と「継続性あるシステムの計画と実行」だった。
「オールデジタル」はクリエイティブになじまない
ただし、鈴木氏はここで効率化を焦らなかった。
作業効率だけを追い求めるならデジタル化は必要だが、だからといって「スタジオカラーをいきなり完全にデジタル化するべきではない」と考えたからだ。
「まずはやりたいことやリテラシーに合わせて、補完的にデジタルを使っていくことにしました。世の中ではDX(デジタルトランスフォーメーション)が流行っていますが、DXを曲解したり無理やりデジタル化したりした結果、システムを使いこなせず『アレルギー』が出て、もとに戻ってしまうことも珍しくありません」
鈴木氏は「クリエイティブに関しては強すぎるデジタル化はなじまない」と考えている。そこで行ったのがアナログとデジタルの共存、すなわち「なめらかなDX」だった。
もっとも、当時のカラーにはそもそもDXのための環境が整備されていなかった。そこで鈴木氏は、まず土台作りとして「ネットワーク」「サーバー」「アカウント」の3点に絞って改善を急いだ。
『シン・エヴァ』のために急ピッチで「土台作り」を進行
「インターネット回線をNURO 光に変更し、コアネットワークを10Gbps以上としました。ネットワークセグメントを機能別に分割し、パケットを削減。また、ネットワーク機器が老朽化していたので、入れ替えました」(鈴木氏)
鈴木氏はこれらの作業を約1カ月間で完了させた。『シン・エヴァ』の制作スケジュールを考えると、一刻も早く対応する必要があったのだ。
次に手を付けたのはサーバーだ。カラーはそれまで、新しく作品を制作するたびにストレージを買い足しており、バックアップのコストが跳ね上がっていた。そこで鈴木氏はDell EMC Isilonでストレージを統合、さらに災害を想定して日本全国に分散バックアップを行った。
アカウントの管理体系も統合した。マイクロソフトのActive Directoryを中核に、Google WorkspaceやMicrosoft AzureADを用いて運用コストを削減していった。
こうした改善の効果はすぐに現れた。障害率や障害対応コスト、遅延などが減り、ここで鈴木氏は「ようやくスタートラインに立てた」と実感を得たのだという。
制作終盤を襲ったコロナ禍、庵野総監督もリモートワークに
土台を整えた鈴木氏が次に取り組んだのは、効率化のためのツール導入だ。コミュニケーションのSlackや、Googleのビジネス向けツール群であるGoogle Workspace、レンダリング管理ツールのDeadline、MDM(スマートフォン・PC管理)ツールのJamfなど、様々なサービスを導入していった。
ちょうどこの時期(2020年春ごろ)、コロナ禍を理由に、政府から出社率の削減要請がなされた。しかし、『シン・エヴァ』の公開は2020年6月27日(※のちに現在の公開日である2021年3月8日まで再々延期)。制作はまさに佳境であり、そんな中での出社率削減は非常に難しい判断になった。
「Slackなどである程度は社員同士のコミュニケーションはとれますが、制作に特化したソリューションはこの時点では未導入でした。我々だけではリモートでの制作は難しいと考え、いろいろな会社の力を借りることにしました」(鈴木氏)
リモート制作のために鈴木氏が導入したのが「splashtop」と「editleap」という2つのツールだった。「splashtop」はリモートデスクトップツールで、社内から社外のPCにデスクトップ画面を転送する機能を持っている。
デスクトップ画面転送型を選んだのは、扱うデータの秘匿性が非常に高いからだ。データを漏えいさせないためには、ローカルへのファイル保存は絶対にNGだと判断した。splashtopはSAMLオプションによりID基盤連携が可能。スタッフの出入りが多いアニメ制作の現場でも、制作から離れた人のアカウントを無効化できることから、セキュリティを担保できる点も魅力だった。
「VPNという方法もありますが、100人や200人になるとファイアウォールの高負荷が懸念されます。画面転送型のソリューションは必然だったといえます」
「editleap」は『シン・エヴァ』の総監督である庵野秀明氏がリモートワークをするために使われた。
編集作業は通常、庵野総監督が編集室にこもり、編集スタッフとつきっきりで行う。だが、コロナ禍でそれはできない。そこで編集室の映像を「editleap」を使用してライブストリーミングで配信。庵野総監督が自宅で映像を見て、リモートで指示を出すという方法で乗り切ったという。
『シン・エヴァ』を終えて、挑戦したい3つのこと
リモートによる『シン・エヴァ』の制作を経て、鈴木氏は「今後、3つの新しいことに挑戦したい」と意気込む。
「まず、“新しい作り方”としてUnityとBlenderのワークフローに可能性を感じています。また、今後リモートによる共同作業は欠かせないものになるでしょう。“新しい働き方”としてのリモートクリエイティブワークです。そして“新しい網”、最新の通信網である5Gにも期待しています」
鈴木氏はこれらの新しい挑戦にあたり、エンジニアの必要性を強く感じているという。特にアニメ業界が求めているのが、テック系やIT系のエンジニアだ。
専門領域に特化した人材も当然必要だが、特に鈴木氏が求めているのは何でもこなせるジェネラリストだ。スキルセットとしてはC#やPythonが扱えると即戦力だが、究極的には言語は問わず、「目的を達成するために何が必要か考えられる能力」を求めている。
講演の締めくくりに、カラーでは現在エンジニアを募集していることを告知。興味を持った人は、鈴木氏のTwitterアカウントに直接連絡してほしいと呼びかけた。
アニメ業界のデジタル化とインフラ構築はまだ始まったばかり。鈴木氏がそうだったように、異業界で活躍するエンジニアのノウハウが活かせるチャンスは多い。アニメ業界にイノベーションが起きる日はそう遠くなさそうだ。