日本テレビ系ドキュメンタリー番組『NNNドキュメント’21』(毎週日曜24:55~)では、テレビ岩手・ミヤギテレビ・福島中央テレビ共同制作による『東日本大震災10年 いま、伝えたいこと…』を、きょう14日に放送する。
東日本大震災から10年、大津波を逃れた当時中学生だった少女は、犠牲になった人たちを思い、災害と向き合う道を選んだ。瓦礫の中で耐え抜き9日後に救出された少年は、震災を考えることから避けるようになったが、語り部となった。そして、原発事故で故郷を追われた少年は、福島を伝え続けるため、報道記者になった。
今回は、岩手・宮城・福島の共同制作で、彼らの成長を、当時の映像を織り込みながら伝え、「いま、伝えたいこと」を聞いていく。
■テレビ岩手:“伝える人”になりたい…少女は成人して語り部に
東日本大震災の津波で1,000人以上が犠牲になった釜石市。震災当時、釜石東中学校の3年生だった菊池のどかさん(25)。あの日、日ごろから防災教育を受けていた生徒は自主的に避難を開始する。小学校の児童も中学生の姿を見て後を追い始めた。中学生は小学生の手を引き、地域住民含めて総勢約600人が高台に逃げた。三陸に古くから伝わる「津波てんでんこ(=「津波がきたら、てんでばらばらに逃げなさい」の意)の教えを守ったのだ。
子どもたちの一連の行動は、やがて「釜石の奇跡」と呼ばれるように。だが、のどかさんは違和感を覚えるようになる。あれは本当に「奇跡」だったのか。当日、学校を休んだり、避難の途中、犠牲になったりした児童・生徒もいた。そして震災前、度々訓練が行われた「釜石市鵜住居地区防災センター」では、あの日も多くの人が避難し、160人以上が犠牲になったとみられている。
のどかさんは、県内の大学を卒業後、悩んだ挙句、防災センターの跡地に建つ未来館で語り部として働くことを選んだ。「私たち体験者ができるのは『語る』こと。でも、震災を知らない人たちに私たちの語りを『継いで』もらわないと未来の命は救えない」。だからこそ、ありのままを「語り継ぎたい」という。
■ミヤギテレビ:奇跡の救出じゃない。避難指示を無視した、ただの失敗、みんな早く逃げて…
“72時間”…災害が起きて72時間を過ぎると生存率が急激に下がるといわれる。人命救助の用語では「72時間の壁」とも言われている。しかし、東日本大震災が発生したなんと9日後、祖母とともに当時16歳の阿部任さんが救出された。絶望の中唯一明るい話題だった。取り残された家の2階で冷蔵庫のわずかな食料と水で生き延びたという。
マスコミはこぞって「奇跡の救出」と持ち上げた。搬送先の病院で一度代表取材が行われたが、阿部さんは取材を避け続けた。「避難指示を無視した、ただの失敗談なのに…」と自分の思いと世間の見方とのギャップがあった。
大学は宮城を離れ山形へ進学。故郷を離れ外から見ると、石巻のために多くの人が力を尽くしていることに罪悪感を覚えた。大学卒業後は石巻へ戻り「語り部活動」もしている。「災害が起きたらとにかく早く逃げて。じゃないと私みたいにこうやってカメラに追いかけられちゃうよ!」……いまではこう言えるようになった。
■福島中央テレビ:それでもここが故郷─出身記者が見た大熊町─
現在、福島中央テレビで記者を務める渡邉郁也氏は、福島第一原発のある大熊町で生まれ育ち、2016年、福島中央テレビに入社。故郷・大熊町を記者として見つめてきた。高校2年生の時に被災し、その後はいわき市に避難。震災から10年、大学時代にも何度か足を運んだ自宅は除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設が建設されることも決まった。
故郷に戻れない長い日々が続く中で、いつしか地元を伝え復興につなげたい。そんな思いが強くなっていく。小学校から高校まで一緒に野球をやっていた青田瑞貴さんは、故郷で放射性物質を取り除く、除染作業に携わっている。住民の要望を受けて、家を取り壊すこともある。特に、知人の自宅を壊すのは、胸が詰まる思いだという。
一緒に汗を流したグラウンドには、除染廃棄物が積まれたまま。「いつか、このグラウンドで、もう一度、野球がしたい」という青田さんの思い。故郷はどう変わっていくのか…。