バブル期へと向かう1980年代の幕開け。日本が米国、西欧諸国とともにモスクワ五輪をボイコットした1980年夏に、小林繁と江川卓が伝統の一戦で初めて投げ合った。試合後、小林はいかなる思いを抱いたのか? そして「因縁の初対決」を振り返って語ったこととは?
■「巨人の二文字は口にするな」
1979年に虎のエースとなった小林繁の人気は、高まる一方だった。
シーズンオフになるとテレビ番組に引っ張りだこ、多くのイベントに出席、4社のテレビコマーシャルにも出演した。そしてキャニオンレコードから『亜紀子』という曲で歌手デビューも果たす。この『亜紀子』は発売から1カ月でセールス10万枚を突破。大阪・北新地にクラブもオープンさせた。
順風満帆。そう見えたが、実は小林は野球環境に満足していなかった。阪神タイガースは、必ずしも理想の球団ではなかったからだ。プロとしての自分を育ててくれたジャイアンツとは性質を異にするチームだった。
阪神に移籍して間もない4月。試合に負けた翌日に、小林は早めに球場に入った。ジャイアンツ時代に、そうしていたからだ。
その時、小林は驚いた。
(なぜ誰も来ないんだ?)
打たれたピッチャーは早出で外野を走り続けて汗を流し、打てなかったバッターは特打ちをする。それがジャイアンツでは当たり前のことで、他球団も同じだと思っていた。しかし、タイガースはそうではなかった。
試合に負けても、あっけらかんとしている選手が少なくない。勝利への執念が欠けていると感じられ、シーズン1年目の小林は苛立っていたのだ。
「巨人だったら…」
そう口にしたくなる時もあった。
だが、それは言わなかった。タイガースに移籍してから親身に接してくれていた2軍コーチの相羽欣厚から釘を刺されていたためだ。
「いいか、このチームでは絶対に巨人の二文字は口にするな」
真剣な顔で、彼は小林にそう言った。
相羽は小林がプロ入りする前年までジャイアンツに所属する外野手だった。レギュラーに定着することはできなかったが、「巨人軍・第31代4番打者」として記録に名を残している男。巨人と阪神の性質の違いをよく理解していた。
「ここは巨人とは違うんだ。ここにはここのやり方がある。苛立つことがあっても口に出しちゃ駄目だ。巨人出身であることをひけらかすような態度を取ったら総スカンを食うぞ」
この忠告に小林は従った。
それでもタイガース移籍1年目、チームメイトから酒に誘われても繁華街に繰り出すことは、ほとんどなかった。
だが2シーズン目に入ると、小林の行動に変化が表れる。チームメイトと飲み歩く姿が、よく見られるようになった。
「コバ、どうだ一緒に」
そう誘われるたびに断り続けるのも悪いと小林は思った。それに世間から注目され、期待に応え続けることにも疲れていた。この頃、離婚してもいる。煩わしさと淋しさが同居し、飲まずにはいられなかったのかもしれない。ジャイアンツ時代は下戸だった小林だが、毎晩のようにブランデーを口にするようになる。
■「あの子が勝ってよかった」
因縁の相手・江川卓と初めて投げ合ったのは、そんな頃だった。
1980年8月16日・後楽園球場、小雨が降り注ぐ中でのナイトゲーム。軍配は江川に上がった。結果は5-3でジャイアンツが勝ち、完投した江川が勝利投手となった。小林は打たれたヒットこそ6本だったが、自らの送球エラーなどで4失点。5回でマウンドを降りている。
試合後、勝った江川は興奮を隠せない。それとは対照的に負けた小林は、悔しさを表情に滲ませることもなく淡々としていた。
報道陣に囲まれて小林は言った。
「こういうことはね、早く終わった方がいいんだよ。だいたい、ふたりの投手が投げ合っただけじゃない。それなのにずっとカメラに追いかけられて、無駄な写真もいっぱい撮られて晒し者にされた気分だったからね。野球人生における煩わしいことが、これで終わった。
あの子(江川)が勝ってよかったのかもしれない。負けていれば、何を言われるかわからないし」
それから20年が経ち、大阪近鉄バファローズで投手コーチを務めていた頃、小林に当時を振り返ってもらったことがある。
「もう昔の話だから。でも、よく憶えている。忘れられないよ」
そう話して、彼は続ける。
「負けたけど、あの時はそれほど悔しいとは思わなかった。それよりも儀式が終わってよかったって感じだったかな。騒がれることにうんざりしていたんだ。
もし、あれ(江川との初対決)が1年目だったら俺が勝っていたと思うよ。仮に負けていたら凄く悔しかっただろうね。
阪神での1年目と2年目では、気持ちの入り方がまったく違ったから」
──何が変わったのだろう。
「何だろうね。巨人の頃からカラダは悲鳴をあげていた。でも(阪神での)最初の年は、気持ちでカバーできたんだ。でも2年目からは、それができなかったんじゃないかな。
あれは(阪神1年目は)、俺にとって特別な時間だった。カラダが壊れてもいいと思って後先考えずに投げていたから。気持ちもギスギスしていたし自分勝手だったし、疲れたよ(笑)。あの1年で蟠りも消えた。だから、悔しさも湧いてこなかったんだろうね」
小林が縦縞のユニフォームを身に纏ったのは僅か5年。30歳の若さで惜しまれながら現役を引退する。その背景に何があったのか…次回で綴る。
文/近藤隆夫