綿矢りさの小説を原作に、『勝手にふるえてろ』などを手掛けた大九明子がメガホンをとった映画『私をくいとめて』が年末から公開中だ。

アラサー女性の恋愛もの、だけどちょっと違う空気

  • 映画『私をくいとめて』

31歳の主人公の黒田みつ子を演じるのは、のん。みつ子はおひとり様ライフを謳歌しているが、ときおり迷った際には脳内に現れる「A」という存在と会話をしてきた。そんなみつ子だったが、自分の働く会社に出入りしている年下の営業マンの多田くんが気になる存在になっていく。

恋愛ものでアラサー女性が、なんとか周囲に置いて行かれないようになりたい、人並みになりたいともがく物語に食傷気味なのは私だけではないはずだが、この映画は、恋愛ものであり、31歳の女性がもがく物語であるのに、なぜかそういった空気がない。

それが成立しているのは、恋愛ものとして見たときに、みつ子と多田くんの物語が生き生きしているからだろう。多田くんとは定期的にみつ子の家に来て、みつ子の作る手料理を自分の持ってきた器に入れて持って帰るだけの間柄で(こう書くととても前時代的なジェンダー観に思えるが、なぜかそういう話ではないととれるのが不思議だ)、そんな多田君の姿をみつ子は托鉢の僧侶に例えている。

ただ、そうやって多田くんがみつ子の家に来て手料理をもらうようになったのは、みつ子と同じ町内に住む多田くんが、近所のお惣菜屋の行列に並んでいるところに出くわしたからであり、ふたりは、そうやって偶然に会えたことを、ほんのり喜び、遠慮しながらも少しずつお互いに歩み寄る機会をさぐっていたのだった。

劇的なシーンがあるわけでも、記号的な胸キュンのシーンがちりばめられているわけではないけれど、少しずつ距離を測るような歩の進め方が似ている二人を見守っているのが、心地よかった。

特にほほえましかったのは、遂にみつ子の家で食事をするシーンだ。初めて敷居をまたいだ多田は、まだ他人行儀で、しかも2つ年下ということで敬語を使ってコミュニケーションしていたのだが、みつ子に敬語をやめてほしいと言われて、ぎこちなくため口を使おうとする場面だった。そのときの多田の宇宙人のような発音にくすっと笑ってしまった。宇宙人のようになってしまうのは原作にはないシーンだが、映像で生身の人間が演じるからこそ、そのなんともいえない二人のニュアンスが伝わってきた。

自分の「心の声」を放出する姿を描けばフェミニズムになる

この映画では、恋愛のささやかな喜びが見てとれるが、かといって、みつ子のおひとり様ライフが否定されているわけではない。みつ子は、ひとりで合羽橋で食品サンプルの体験をしてみたり、お茶をしたりと、休日を満喫するが、それに疲れたり、ときには孤独が襲ってきたりする夜もある。

しかし、それを必ずしも克服すべきこと、卒業しなくてはならないこととは描いてないように見えたし、卒業して恋愛に向かうことが正解とも描いていないようにも見えた。

そして、一見、飄々とした空気のこの映画だが、中盤から、ぐんぐんみつ子の深いところに入っていくのである。

それは、みつ子が一人で温泉宿に行くときから始まる。そこでは、お笑い芸人のステージが行われており、みつ子が見に行くと、ネタ終わりの女性芸人に温泉客の男性たちが、よってたかってセクハラをするというシーンがあった。

(ここからネタバレを含みます)

何も言えない女性芸人に変わり、みつ子は啖呵を切る……つもりであったが、それは彼女の妄想の中で終わってしまったのだった。

そこから、彼女の心の中に渦巻いていた感情が「A」との会話であきらかになる。会社でも彼女はこうした場面も見たことがあったのだが何も言えなかった過去があったのだ。そして、何も言えなかった自分自身を責め、傷ついてもいたのだった。

そのマグマのように溜まっていたわだかまりが、温泉宿での出来事で一気に噴出する。そのシーンでは、それまでの穏やかな空気が一変して、観客である自分に、ぐっと迫ってくるものがあった。なぜかと考えると、自分にも、見て見ぬふりをしてしまった過去や、憤りの気持ちを表せなかったことがあり、そのことで自分を責めてしまう体験があったからだろう。

この後、みつ子は、学生時代からの親友の暮らすイタリアに向かうのだが、飛行機に対して恐怖心を抱えるみつ子が恐怖と戦い、「A」と会話しつつ、その恐怖を「声を出す」ことで乗り越えるシーンは、幻想的で視覚的にも訴えるものがあった。

「声」を出すということが、大瀧詠一の「君は天然色」にのって、実際に色鮮やかに表現されているということに、ぐっと掴まれてしまったのだ。実際には、飛行機の中で、みつ子が大声を出せるわけではないのだが、気持ちを放出するという表現には高揚感があった。これも、映像で見るからこそ伝わる表現であったし、原作にはないアイデアであった。

しかも、その直前の温泉宿のシーンで、みつ子は、憤った気持ちを声にできなかったのである。「声を出す」というシーンに高揚感を感じるのは、何も映像的なギミックによるものだけではないだろう。

女性たちの思いを自分の言葉として発することができないということ、そしてそれを表現できるようになるという過程を描くと、それはフェミニズムになる。韓国の『82年生まれ、キム・ジヨン』の映画版は、自分の怒りを人に憑依することでしか表現できなかった主人公が、自分の言葉を取り戻す物語となっていたが、『私をくいとめて』を見ていると、この映画のことを思い出した。

さまざまな女性たちとの「シスターフッド」

この映画は、恋愛映画でもあると同時に、フェミニズムも描いているし、同時にみつ子がいろんな女性たちとの関係性も重要であると思わせるシスターフッドを描いた作品にもなっている。

それは、学生時代からの友人で、今は結婚してイタリアにいる友人の皐月(橋本愛)や、会社の先輩のノゾミ(臼田あさ美)や、"バリキャリ"な女上司・澤田(片桐はいり)などとの関係性からも見えるし、温泉宿ですれ違っただけの女性芸人からも見える。単に女性同士の友情や連帯というだけでなく、一瞬のすれ違いの中にシンパシーがあれば、そこにもシスターフッドは存在するのだと思える。

特に、学生時代は自分のいろんな面をさらけ出していた唯一無二の親友の皐月に対しては、みつ子は自分だけがおいていかれたような気持ちを抱いていたのだが、イタリアの夫やその家族たちと幸せに暮らしている中で皐月も、そこはかとない不安や孤独を感じていたのが伝わってきたし、その孤独を知ったことが、みつ子がイタリアに行って最も得たことないだろうか。離れていても、どこでどんな暮らしをしていても、人には孤独があり、そのシンパシーがふたりの繋がりをより濃くしたのだと思う。

こうしたたくさんの女性たちとの関係性が印象に残るのは、彼女たち、ひとりひとりが、どこか我々の確実に知っている誰かに似ているし、それぞれが、また別の濃淡のある生きづらさや孤独を感じながらも生きているからではないか。

物語は、そうした経験を経て、みつ子が多田くんに向き合い、そしてそのときの「A」との関係性の変化を描くところで結末を迎える。それはハッピーな結末なのだが、単にみつ子が「おひとり様」をやめて、恋愛に向かうということが成長だとか、大人になることだとか、もっと言えば孤独が消えてなくなると言っているようにも見えなかったことが心地よかったし(だって「A」はひそやかにみつ子の傍にいるのだから)、この映画の最大の魅力だと思えた。

(C)2020『私をくいとめて』製作委員会