選手、スコアラー、査定担当、編成担当といったさまざまな役割を務めながら、読売巨人軍で40年間を過ごした三井康浩氏。WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)第2回大会では日本代表を支え、連覇達成に貢献した伝説的スコアラーとしても知られる。長く多彩な球界でのキャリアを通じて出会ってきた数えきれない選手たちのなかで、「独特さ」では群を抜いていたというのが落合博満氏だ。
「対戦相手の4番」「チームメート」「対戦相手の監督」と様々な立場で訪れた接点について聞いた。
■抜群の読みで打った、記憶に残る一発
三井氏が同じ時代を生きた大打者のひとりに落合博満氏がいる。社会人野球を経てプロ入りした落合は年齢こそ三井氏より8歳上だが、同じ1979年にプロ野球選手としてのキャリアをスタートさせている。
――落合さんはパ・リーグのロッテ出身ですから、セ・パ交流戦もなかった時代だと、当初は少し遠い存在だったのでしょうか?
三井 正直、同じ年にプロ入りしていたのも知らなかったくらいです。若手時代は自分のことで精一杯で、一軍のましてやパ・リーグの試合となると、ほとんど見たことがありませんでした。当時はテレビ中継といえば巨人戦がメインでしたしね。
落合さんを認識したのは、やっぱり打倒巨人に燃える星野仙一さんが企てた1対4の大型トレードで中日に来てから。その頃わたしはすでに選手を引退してスコアラーになっていて、落合さんは対戦相手の強打者ですから、チームとして最大級のマークの対象ではありました。
でも、わたしは対戦相手の投手に対する分析をまかされていたので、落合さんの攻略を直接考える役割に就いたことはなかったんです。
――では、中日時代の落合さんの印象もあまり強くないのでしょうか?
三井 いや、それでも対戦時に打席は目にしていますからね。強く印象に残っているのは1989年、8月12日、ナゴヤ球場でのナイターです。その年20勝を挙げることになるエース・斎藤雅樹が中日打線を完璧に抑え、8回までノーヒットノーランの快投を見せていました。ところが9回、許した初ヒットから失点し3対1。
そして2死ながら走者をふたり置いて落合さんを迎えます。前の2打席はストレートで押し込んで力ないフライに仕留めていたバッテリーは、この打席もストレートで攻めました。
――うまく抑え込んでいたボールで再度、攻めた。
三井 このときの落合さんをよく観察していたのですが、ヤマを張っている様子はなく、ストレートは狙わず、得意な変化球を待って打ってくるだろうと思って見ていました。ですから、ストレートでいくのはバッテリーとしては妥当な攻めです。
ところが、ワンボールから外角に制球された、普通なら見逃すであろうストレートを、落合さんは待ってましたとばかりに打ちにきた。おっつけるようにして打った打球は、センターに伸びていってスタンドに入り、巨人は3対4でサヨナラ負け。前2打席の結果を布石として使って投げさせたストレートを待ち、完璧に打ってみせる勝負師ぶり。敵ではありましたが、あれはしびれましたね。
■映像不要。口頭で伝えただけで「癖」を利用できた
1994年、落合は三井氏がスコアラーとして経験を重ね評価を高めつつあった巨人にやってくる。長嶋茂雄監督の「第二次政権」の2年目のことである。それまでは外からしか見ることのなかった落合の打撃を間近で見る機会が訪れた。
――巨人にやってきた落合さんは、どんな様子でしたか?
三井 野手ミーティングはわたしが相手投手の攻略について話すことが多かったのですが、落合さんはそのミーティングに出てこないんですよ…(苦笑)。特別な存在であることを誰もが認めていましたから、それがあたりまえでした。ただ、スコアラーの提供する情報に興味がないかといえばそうではない。ミーティングが終わったあと、個別にいろいろと聞いてくることもありました。
投手の癖にしても、他の選手がいる前では知りたがっているそぶりを見せないのですが、ふたりっきりのときには尋ねてくる。ただ、他の選手は癖の見分け方のビデオを何度も見て、ようやく攻略に使えるようになるのですが、落合さんは口頭で伝えるだけで「なるほどな」といって理解していたのは驚きました。
――間近で見る落合さんの打撃は、どんなところが他の選手とちがいましたか?
三井 打球が詰まることを恐れていないんですよね。詰まっても内野の後ろに落とせばいいと考えている節があるようでした。だから、ボールを長く見て近いポイントでとらえる打撃ができる。
MLBの強打者だったバリー・ボンズなどもそうなのですが、一瞬「ああ、見逃すのか」と思うくらいの遅いタイミングでピュッとバットが出てくる。ああいう打撃ができるバッターはほとんどいませんが、最近だと調子がいいときのヤクルトの山田哲人のバットの出方は少し似たものを感じました。
――独自の感覚で打っていたからこそ、野手ミーティングで他の選手と同じ攻略法を聞いても、あまり意味がないと思っていたのかもしれませんね。
三井 おっつけるような打ち方で打っているのに、打球は引っ張ったときに飛んでいくレフト方向にいったりしますからね(笑)。本当に独特だし、普通じゃないですよ。
極めつけは、当時のプロ野球選手の誰もが苦しんだ横浜の佐々木主浩のフォークボールを「あれは、カーブだと思って打てばいいんだよ」といっていたことですね。落差の大きさは確かにカーブに近かったですが、その感覚で打てるのは落合さんだけでした。
――そうなってくると、落合さんに教えをこう選手なんかも現れにくかったのでしょうか?
三井 そうですね。関心を持っている選手はいましたが、継続的にコミュニケーションをとっている選手はいなかった気がします。本人もあまり誰かとつるむほうではなかったですね。遠征先では長い時間かけて朝食を食べるルーティンがあって、それに付き合うことになる仲のよい打撃投手がひとりいたくらい。やっぱり一匹狼が似合う人でしたよ。
■もう出てこないかもしれない強烈な「個」
落合は3年で巨人を退団、再びパ・リーグへ。日本ハムで2年プレーしたのちに引退したが、5年後に中日監督として球界に舞い戻る。原辰徳監督を支えるチーフスコアラーとして活躍していた三井氏の前に立ちはだかることとなった。
――当時の巨人と監督としての落合さんとの戦いは、結果だけを見るとかなり苦しんだ様子が見て取れます。
三井 そうですね。わたしはスコアラーとしての最終盤にあたる2004年〜2007年にかけて落合さんが率いる中日と戦いましたが、中日は二度の優勝と二度の2位。巨人はこの4年間で一度優勝しただけですから、苦戦を強いられていたのは事実です。
落合さんが率いていた中日で印象的だったのは、徹底した「秘密主義」。当時のセ・リーグは予告先発制度がなく、互いに先発投手の探り合いをしていたのですが、中日はまったくもって情報が漏れなかった。選手個々の攻略法は見つかっていても、その投手がいつ投げてくるかが的確にわからなければ万全な対策はとれません。自軍の選手に、複数の先発投手の攻略法を同時に頭に入れてもらうのは難しいからです。
――やりにくかった相手としては、野村克也監督が率いるヤクルトなどもそうだと思いますが、落合さんの中日とどちらがやりにくかったですか?
三井 スコアラーとしてその分析の深さに驚かされることが多かったのは、「野村ヤクルト」ですかね。「落合中日」は、相手が嫌がることを抜け目なくやってくるその徹底ぶりが印象に残っています。勝利に対する執念は、どちらの監督も強いものがありましたが、方法論が異なっていました。
――それだけ警戒するということは、落合さんも巨人との「情報戦」に勝つことに大きな価値があると考えていたのではありませんか?
三井 一度、中日のスコアラーから「対巨人は、対三井でもあると落合監督がいっている」という言葉を聞いたことがあります。落合さんが巨人にいた頃、わたしたちスコアラーの仕事にどんな評価をしてくれていたかはわかりません。
ただ、巨人と戦うとき、少しでもわたしたちの存在を落合さんが意識してくれていたのだとすれば、それは野球人としてはうれしいことですよね。振り返れば、落合さんは不思議な野球選手でした。自分のために野球をやり、それを貫き通すことでチームを勝利に導くのだという信念があるようにも見えた。
あれほどまでに強烈な「個」を前面に出していける選手は、もう出てこないような気もするのです。
構成/岩川悟(合同会社スリップストリーム) 取材・文/秋山健一郎 写真/石塚雅人