ヴァン・ヘイレンを初めて聞いたのは、1978年、もうすぐ春休みになるころの中学1年生だった。ラジオから流れたユー・リアリー・ガット・ミーはAMのしょぼいラジオでも、今まで聞いたことのない並外れたディストーションのギターサウンドだった。デビューしたばかりのバンドという紹介だった。
当時、ストラトの安物コピーモデルとMaxonのD&S IIを持っていたが、セミの鳴き声みたいな音しか出せなかった。一体何を使ったらこんな荒々しくもクリアなサウンドが出せるのだろう? と鳥肌が立った。
次の日、学校が終るとその足で秋葉原の石丸電気に出向き、ヴァン・ヘイレンのデビューアルバム「炎の導火線」を買った。僕は当時、「レコードを買うなら石丸」と決めていた。今では当たり前だが、レコードを買うと10%分程度のレコードポイント券がもらえたのだ。そんなサービス、まだどこもやってなかった。それにLPを1枚買うと、レジカウンターの上に並んでいるポスターが1枚と、なぜか明治ミルクチョコレートも1枚もらえた。考えてみたらLP1枚買うのに電車賃をかけて得なのか損なのかわからないが、正月明けにお年玉を携えて、5枚くらい一気にLPを買うのが何よりも楽しみだった。
家に帰りつき、ターンテーブルにLPを乗せ音が出るのを、緊張して待った。なにやら近未来的な音から一転、やはりAMラジオとは比べものにならない、クリアなのに荒れ狂ったようなディストーションのリフが始まった。「Runnin' with the Devil(悪魔のハイウェイ)」だった。こんな激しいギターサウンドなのに意外なことにコーラスが澄んだ声でとてもキレイだったことに驚いた。ボーカルがあるところではギターのボリュームでディストーションをコントロールしているようで、繊細な歪みが出ていた。
2曲目の「Eruption(暗闇の爆撃)」はジャケットを見ながら「なんでこんなに短いんだろう?」と首をかしげていたら、丸ごとギターソロである。また、0:59あたりが何をどうやったらこんなに早く弾けるのだろう? とまた、鳥肌を立てた。
当時はロックミュージシャンが動いているところなんて、ライブでも行かない限り見られなかった。テレビでもめったに流れないしYouTubeなんて当然なかった。後に、雑誌Player(だと思う)でエドワード・ヴァン・ヘイレン特集で「ライトハンド奏法」という思いもしなかった右手の人差し指でフィンガーボードを直接叩くというやり方で超絶スピードを実現していたと知った。早速、セミみたいなギターで練習した。意外にそれっぽく聞こえることがわかり感動した。でも全然違った。決定的に異なっていた。
ギターソロの凄みに打ちのめされながら3曲目が始まる。ラジオで聞いた「You Really Got Me(ユー・リアリー・ガット・ミー)だった。ステレオでキチンと聞くイントロは本当に、今まで聞いてきたどのロックギターの音とも違った。異次元だった。1音半~2音のチョーキングの多用、一瞬だけ入るライトハンド、こすりつけるようなカッティング、絶妙なトレモロのタイミング、隙があれば挟まれるハーモニクス、どれを取っても素晴らしかった。
「炎の導火線」からのプロモーション・ビデオは色とりどりのライト、スモークの演出で笑っていない正統派のハードロック路線だった。ヴァン・ヘイレンの印象が大きく変わったのはアルバム「1984」からの「Jump(ジャンプ)」のビデオからだ。超絶技巧は変わらないが、エディーが終止ニコニコしながら演奏し楽しくてしょうがない感がひしひし伝わってきて、見てるこちらも楽しくなった。
同じアルバムから「Panama(パナマ)」もビデオがある。所見ではきっとベスト・ヒットUSAで見たのだと思うが、MTV全盛期のこともあり、これがまあ、バカっぽい(失礼!)楽しい映像だった。ハードロックのギタリストはよく顔をしかめるが(ROLLYさんは「顔で弾く」と言ってます)、エディーはいつもニコニコしていた。このプレイスタイルも既成概念に縛られないエディならではだったろう。
エディーのご子息、ウルフギャング・ヴァン・ヘイレンのコメントを引用します。
「信じられない思いですが私の父、エドワード・ロードウィック・ヴァン・ヘイレンが今朝がんとの長くつらい戦いに敗れました。私にとって最高の父親でした。ステージのオンとオフ問わず一緒に過ごした全ての瞬間が尊いものでした。心が痛みます。この喪失から完全に立ち直ることは今後ないでしょう。お父さん、本当に愛しているよ」
エドワード・ヴァン・ヘイレン2020年10月6日(火)喉頭がんにて死去。享年65。
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僕にとっても、多くの大人になったギターキッズにとっても、この喪失感は消えないだろう。偉大なギタリストのご冥福をお祈り致します。