どんなに光に満ちて見えるプロ野球のスター選手であっても、乗り越えなければいけない壁にはばまれた経験は必ずある。WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)第2回大会で日本代表の優勝を支えた伝説的なスコアラーとして知られる三井康浩氏は、読売巨人軍に選手、スコアラー、査定担当、編成担当と役割を変えながら40年にわたり関わり、たくさんの選手たちの姿を見つめてきた。

  • 「あらゆるもの」を利用して打者を抑えにいく貪欲さ。20歳・桑田真澄は「本物のプロ」だった /元読売巨人軍、チーフスコアラー・三井康浩

その関わりのなかで印象的だった選手たちとのエピソードを聞くインタビューは、独自の投球観で一時代を築いた桑田真澄選手について。「なにかを付け加える余地がない」と感じさせる洗練されたスタイルを携え巨人にやってきた若者は、またたくまに球界を席巻。やがて訪れた大手術を要する選手生命の危機も、たじろぐことなく乗り越えていった。

■桑田は、いまでいうなら大谷翔平のような自立した選手

1980年代中盤、甲子園で圧倒的な存在感を示したPL学園のエースとして、その名を全国に知られるようになった桑田真澄。同学年でともにプロ入りする清原和博と、1年の夏から5季連続で甲子園に出場。優勝2回、準優勝2回、4強1回という黄金時代を築きあげた。

卒業年の1985年のドラフト会議では、大学進学をうかがわせつつも巨人から単独指名を受け入団。2年目に頭角を現し、精密なコントロールと相手打者を翻弄する頭脳的な投球で15勝、防御率2.17で最優秀防御率と沢村賞を獲得。その後22年のプロ野球人生で2ケタ勝利は10回、通算で173勝を挙げ、長く巨人の投手陣を支えた。現役最終年の2007年にはピッツバーグ・パイレーツと契約しMLBのマウンドにも立った。

——桑田投手が入団した1986年というのは、三井さんは現役を退き裏方としてのキャリアをスタートさせたころになりますね。覚えていることはありますか?
三井 当初は二軍監督だった須藤豊さんたちが、あまり急がず二軍で経験を積ませようとしていました。ただ甲子園のビッグスターでしたし、彼も自分のやりかたをしっかりと持っているほうだったので、当初は積極的に関わろうとする指導者はあまりいなかったような印象もあります。フォームは完成されているように見えたし、なにかを付け加える余地がない。そんな洗練されたイメージがありましたしね。

——実際には5月に一軍で初登板を果たし、6月には初勝利を挙げています。
三井 そうです。結局は早い段階で一軍に上げたんですよね。投手としてはコントロールがよく、自分のスタイルを持っているなというのは感じました。でも、その時点で「目を見張るボールがあった」という記憶はないんです。むしろ、抜群にうまかったフィールディングや高校時代から定評があったバッティングの印象のほうが強く残っています。

でも2年目からは、コントロールの精度をベースにした投球術を磨き、ローテーション入りし200イニング以上を投げて15勝。最優秀防御率と沢村賞を獲得していますから、あっという間に別の次元の投手になっていたように思います。

——身体は大きくありませんでしたが、どんなときにもあわてず、いつも自分のペースで投げていた記憶があります。
三井 高校を卒業して2年目でそんなことができる投手はいません。自分で目標を立て、それを実現するためにすべきことを考え、自らを追い込んでいく。いまでいうなら、大谷翔平(ロサンゼルス・エンゼルス)のような自立した若手選手だったように思います。

——桑田投手本人も、しごきのような前時代的な猛練習には否定的だったようですが、「目標に向かって毎日コツコツ努力していくことは好きだった」という発信はしています。
三井 練習に対する姿勢は素晴らしいものがありましたよ。練習中に誰かとふざけたりしているところや、連れ立って遊びに出かけたりしているのも見たこともないんですよ。

■捕手の経験値を高め、能力を引き上げることができる投手

独自のスタイルを貫き、結果を出すことに成功した桑田は、すぐにプロの世界に適応。斎藤雅樹、槙原寛己とともに巨人の先発投手陣を支える3本柱の一角としてフル回転するようになる。

——その後、桑田投手はローテーションに定着し6年連続で2ケタ勝利を挙げるなど巨人の投手陣の屋台骨になりました。
三井 わたしもスコアラーとなり、より間近で桑田を見るようになってそのクレバーさをあらためて知るようになりましたね。彼は、ヒットを打たれたり、ファウルボールがフェンスに当たったりしたとき、捕手がそれを交換しようとすると止めるんです。

表面が痛んだ可能性のあるボールは投げにくいですから、投手は普通交換したがります。でも桑田は、そうしたボールをよく観察して投球に生かせないかと考えていたんです。

——自分でボールに傷をつければそれはもちろん反則ですが、自然についた傷を使うのは自由です。あらゆるものを利用して打者を抑えてやろうというのは、プロフェッショナルな姿勢といえるかもしれません。
三井 そう思います。とにかく冷静さの度合いが、桑田はほかの投手とは段違いでした。また、捕手とよくコミュニケーションをとっていて、捕手のレベルを上げる役割を果たしていました。このころ捕手のレギュラーを狙うポジションにあった村田真一は桑田よりも年上ですが、桑田とバッテリーを務めるなかでたくさんのことを学び、捕手としての引き出しを増やしていたはずです。のちに工藤公康(現・福岡ソフトバンクホークス監督)がダイエーに在籍していたとき、バッテリーを組んだ城島健司を成長させましたが、それに近いものがあったのではないでしょうか。

桑田は巨人に単独指名されるかたちとなった入団の経緯にはじまり、マスコミに注目されることの多い投手でしたが、いつでも野球とは心静かに対峙していました。食生活なんかにも誰よりも気を使っていたし、弱音を吐いているところも見たことがない。数少ない真のプロといえる投手だったのように思います。

■大手術から復帰の道のり。印象に残るのはひたすら走る姿

高校1年から注目を浴び続けてきた桑田の野球人生だったが、プロ入り10年目に大きな壁がたちはだかった。右肘の靭帯断裂が発覚し、トミージョン手術に踏み切ることとなったのだ。復帰までは2年を要した。スポットライトのあたらない日々を桑田はいかに過ごしたのだろうか。

——1994年、中日との「10・8決戦」として知られる、優勝決定を懸けた最終戦を経てのセ・リーグ制覇、日本一にも貢献した桑田投手は翌年、側副靭帯断裂の断裂というアクシデントに見舞われました。
三井 5月の阪神戦でピッチャーフライに飛びついたときに肘をケガしたんですよね。その検査を通じて、靭帯を損傷していることがわかったんです。それで靭帯移植手術、いわゆるトミージョン手術をすることになりました。結局、復帰までは2年弱を必要としましたが、その間の桑田はとにかく走っていました。まだ腕を吊った状態で走っているのを目にしたこともあります。

——桑田投手が在籍していたPL学園でも、部員全員で忍耐強くひたすら走り続けることがあったそうですが、そうしたトレーニングと重なります。
三井 「走ること」がもう変えられない自分のスタイルとなっていたのかもしれません。復帰までにかかった2年というのは、現在のトミージョン手術からの回復に費やす時間を考えるとやや長いような印象も受けますが、プロフェッショナルに徹する桑田が、万全を期して復帰までの道のりを歩んだ結果であるような気もします。

また、このときのインターバルが彼の選手寿命を伸ばした可能性もあると思うんです。高校野球で1年生から投げ続け、プロでも2年目からフル回転した投手が、39歳まで現役生活を続け、最後はMLBに挑むことまでできたのですから。

——そうですね。ちなみに、桑田投手がもう少し早い段階でMLBのマウンドに立つチャンスを得ていたらどんな結果になったと思いますか? 三井 ある程度の成功はしたでしょう。カーブなどの変化球を全盛期のコントロールで投げることができれば、緩急を生かすことでメジャーリーガーを幻惑できたはずです。投手はどうしたって徐々に対応されますから長期間にわたっての活躍は難しかったかもしれませんが、一定の結果は残せたでしょう。

それから、アンパイアとの相性はかなり影響したかもしれませんね。ストライクゾーンへの出し入れで勝負する投手ですから、両サイドをしっかり判定してもらえることがMLBでの活躍の条件だったような気がします。オリジナルのスタイルを持ち、頭脳を生かした投球ができる桑田という投手がMLBを席巻していたら、アメリカでの日本人投手のイメージはまたちがったものになっていたかもしれません。そんな姿を、見てみたかったと強く思います。

構成/岩川悟(合同会社スリップストリーム) 取材・文/秋山健一郎 写真/石塚雅人