日本の人口ピラミッドを見ていると、一部だけ極端にへこんでいる年があります。その年は丙午(ひのえうま)に当たる年。丙午生まれの女性に関する迷信が影響して、出生率自体が下がってしまった結果と考えられています。
本記事では丙午(ひのえうま)の詳しい意味と、前回・次回の丙午がどの年に当たるのか、由来や迷信の内容について解説。丙午の迷信が出生率に与える影響や、その他の豆知識についてもまとめました。
丙午(ひのえうま/へいご)とは? 意味を簡単に、わかりやすく解説
まずは丙午とはどういう意味の言葉なのかや、具体的にはいつのことを指すのかを見ていきましょう。
丙午は、「ひのえうま」または「へいご」と読みます。
丙午(ひのえうま)とは干支(十二支十干)の43番目の組み合わせのこと
丙午は、60種類ある十二支十干、つまり干支(えと)の一つで、順番では43番目に当たります。
なお干支は年ごとに変わり、60年で一巡します。ちなみに、60歳で祝う還暦(かんれき)とは、自分の干支が戻ってくることを祝うものです。
丙午は「丙」と「午」で火の性質を二重に持っているという意味から、非常に勢いのある干支であると考えられていました。
もう少し細かく見てみましょう。
十干は「甲・乙・丙・丁・戌・己・庚・辛・壬・癸」の10種類があり、それぞれ「火・水・金・土・木」と「兄・弟」の性質を持っています。
丙午の「丙」は十干の一つで、「火の兄」という意味があります。
そして十二支は現在でもおなじみの「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」の12種類です。
「午」は午年のことで、これもまた火の性質を持つといわれています。
これらのことから、前述のように丙午は火の性質を強く持つとされています。
なお陰陽五行説を元にした「四柱推命(しちゅうすいめい)」では、丙午生まれの人は逆境に強く、行動力がありさっぱりとした性格。自分にも他人にも厳しい面がありますが、勢いのある強運の持ち主だとされています。
直近の丙午(ひのえうま)はいつ?
前回の丙午は1966年(昭和41年)で、次に巡ってくる年は2026年(令和8年)となります。
丙午(ひのえうま)生まれの女性の性格・特徴に関する迷信
丙午には、「丙午生まれの女性は気性が激しく夫を不幸にする」という迷信があります。そもそも、この迷信はどのような流れで生まれたのでしょうか。
中国での伝承が日本で変化
干支が生まれた中国では、丙午・丁巳(ひのとみ)の年には、天災が多いと言われていました。この伝承が日本に渡り、江戸時代になると「丙午の年には火事が多い」という話に変化します。
このときはまだ、丙午生まれに関する迷信は生まれていませんでした。
その後「気性が激しく夫を不幸にする」と言われるように
文献上で丙午生まれに関する記述が見られるようになったのは、1662年(寛文2年)以降のこと。
「丙午の男性・女性は配偶者を殺す」「よめ取りむこ取りに丙午生まれの人を避ける」という記述が残っているそうです。
この時点では、男女の区別なく丙午生まれに対して良くないイメージを持っていることがわかります。
その後、1726年(享保11年)からは、女性に関する記述が残るように。18世紀以降は、丙午生まれの中でも女性ばかりが悪く書かれるようになりました。
文献に残る丙午(ひのえうま)に生まれた女性の悲劇
多くの歌舞伎・浄瑠璃などでも描かれた「八百屋お七」。彼女は、1682年(天和2年)に江戸の大火から避難した際に出会った男性と恋仲になり、再会を果たすために放火事件を起こし、火刑になったといわれています。
このお七も丙午生まれと語られていますが、実はお七の生まれははっきりとはわかっていません。
また、丙午生まれの女性に対する迷信のために、追い詰められて自殺した女性の話も残っています。1906年(明治39年)生まれの女性が適齢期になるころには、「自分は丙午生まれなので結婚できない」と将来を絶望視した女性が自殺する事件が相次いだそうです。
丙午(ひのえうま)の迷信が出生率・出生数に与える影響
丙午生まれの迷信は、出生率に大きな影響を与えてきました。具体的に、どれぐらいの影響があったのかを、前回と前々回の丙午を参考に数字で紹介します。
前回の1966年は出生率が4.9%減少、翌年5.7%増加
前回丙午が巡ってきた1966年(昭和41年)は、この迷信を信じて妊娠出産を避けた夫婦が多かったと見られ、統計上でも出産率が4.9%減少しました。
その代わり、翌年の1967年(昭和42年)の出生率は5.7%増加し、丙午の年だけが異様な落ち込みを見せていたことがわかります。
前々回の1906年は出生率が1.6%減少、翌年4.4%増加
では、1966(昭和41年)年のさらに60年前はどうだったでしょうか。1906年(明治39年)の出生率は、前年比で1.6%減少しました。翌年は前年比4.4%増加で出生率は元に戻っています。
1906年(明治39年)の出生率がそれほど下がらなかった主な原因は、明治時代の統計学者、呉文聰(くれあやとし)氏の人口動態統計調査によって判明しています。
人口動態統計の月別データでは、1906年(明治39年)の後半の出生は男児の割合が非常に高く、逆に翌1907年(明治40年)の初めは女児の割合が高いという結果に。この2年間を合計すると、性別に大きな偏りはありませんでした。
呉氏によると、丙午生まれの女性となることを忌避した親が、女児の出生届を翌年にずらして届けたケースが多く見られたそうです。出生年を意図的にずらすことを、当時は「生れ年の祭り替へ」と呼んでいました。
ちなみに、1966年(昭和41年)の時点では、出生届は2週間以内と定められていることもあり、この年前後で不自然な男女比の偏りは見られません。
次の丙午である2026年はどうなる?
次に迎える丙午は2026年(令和8年)です。出産率が年々下がっている中、いまだに丙午生まれの女性に関する迷信を信じて回避する人が多いかどうかはまだわかりません。
迷信を信じない人は前回の1966年より増えていると考えられますが、出生率がどうなるかは、まだ見えていないのが実情です。
丙午(ひのえうま)に関する豆知識
丙午に関する豆知識、特に前回の丙午生まれに関する情報をいくつかピックアップしました。参考程度にご覧ください。
出生に占める第1子の比率は1966年が突出して高い
人口動態統計によると出生に占める第1子の比率は、1966年(昭和41年)が突出して高くなっています。1966年(昭和41年)の第1子比率は50.9%と半数以上。つまり、1966年(昭和41年)に生まれた子どもの半数以上は最初の子どもだったという意味です。
1966年(昭和41年)前後の数年の第1子比率は45%前後で一定しており、1966年(昭和41年)の数字はかなり特殊です。しかし、なぜこのような数字になったのかという原因は特定されていません。
1966年生まれの就職時は、バブル景気で比較的有利な状況だった
1966年(昭和41年)生まれの人が大学を卒業する頃は、1990年(平成2年)前後でバブル景気の最中だったこともあり、就職には比較的有利な状況でした。
バブル景気の影響が大きかったため、1966年生まれの人数が少なかったことで有利だったかどうかは不明です。
1966年生まれの結婚確率は、男女ともに若干低いが大きな差はない
1966年(昭和41年)生まれの結婚確率は、2000年(平成12年)と2005年(平成17年)の国勢調査の結果、若干低いことがわかっています。
結婚確率は他の世代と比べて大きな差はなく、女性だけでなく男性も結婚確率が低いという傾向でした。男女ともに結婚確率が低いため、丙午生まれの女性に関する迷信の影響だとは言い切れない結果です。
明治時代には、年頃の女性が自殺するほど強く流布していた迷信ですが、時代が移り変わり、少しずつ迷信を信じる人が少なくなっているのかもしれません。
丙午(ひのえうま)とごうのとらとの違い
丙午生まれと同じような迷信に「ごうのとら」があります。ごうのとら生まれの女性も、気が強いという俗説があるのですが、現在ではあまり聞かれない言葉です。丙午ほどメジャーではありませんが、ごうのとらも丙午と同じような迷信の一つと考えられます。
諸説ありますが、有力な一説としては、ごうのとらとはごおうのとらのことで、「五黄の寅」を指すと言われています。五黄とは九星占星術でいう「五黄土星」を指し、五黄の寅は36年で一巡します。前回の五黄の寅は2022年(令和4年)、前々回は1986年(昭和61年)でした。
丙午(ひのえうま)の迷信に科学的根拠はない
丙午そのものの意味と迷信、丙午の迷信が出生率に与えた影響などについて見てきました。
そもそも、丙午の迷信には科学的根拠はまったくありません。現代で丙午生まれの迷信を口にすると、女性差別とも受け取られる可能性があり、トラブルの元です。
万が一ビジネスの場で丙午の迷信について触れる人がいてもさらりと流すようにして、トラブルを未然に防ぐように注意しましょう。