東京の、そして日本のモノづくりを支えている東京台東区。そのキーマンともいえる木本硝子の木本誠一氏は、東京下町の手作り硝子工場や江戸切子の職人、デザイナーやクリエイターの方々とタッグを組んで硝子製品の新しい世界観を創り出しています。

昭和6年の創業から3代続く木本硝子。中小企業が時代を超えて生き残るためにはどうすればよいのか。本稿では、税理士でありながら幾つもの事業を立ち上げてきた連続起業家のSAKURA United Solution代表・井上一生氏が、木本誠一氏と対談を行いました。

  • 人間力が100年企業を創る(写真:マイナビニュース)

    人間力が100年企業を創る

自分に影響を与えてくれた人たちの存在

井上一生氏(以下、井上)――「木本硝子さんは1931年(昭和6年)の創業で、もうすぐ90年ですね。会社を継ごうというお気持ちはずっとあったのでしょうか?」

木本誠一氏(以下、木本)――「親の会社を継ごうという気持ちはなかったですね。大学を出て三菱電機で働いていたのですが、大企業でいろいろなことができるのも楽しかった。ただ、『自分で計画して自分で実行して自分で判断する』ということが大企業だとできないということに気がついて。中小企業社長の親父は、普段からそれをしているんですが、大企業にいると中小企業社長にとっては当たり前のことができない。知らず知らずのうちに、親の背中を見ていたのかもしれませんね。それで会社を継ぐことにしました。

うちは創業したのは祖父の代で、いわゆる硝子食器に特化した問屋業です。工場や職人さんが作ったものを仕入れて、当時でいう松坂屋さんに売っていた。両親と親父の兄弟で経営していたのですが、シュリンクするような先行きの厳しい状況にありました。私は大学でマーケティングを勉強していて、当時でいう百貨店よりもスーパー、今でいうなら量販店のマーケットが広がると思ったんです。そこで、ジャスコ(今のイオングループ)と取り組みを始めました。まだジャスコが首都圏で数店舗しかなかった頃のことです」

  • (左)木本誠一氏、(右)井上一生氏

井上――「その後、ジャスコは大型ショッピングモールなど大規模に全国展開していったのですよね」

木本――「そうです。うちはそこに硝子食器を入れたわけです。イオンはアメリカ型のマーケティング手法を取っていたので、条件が良ければ買ってくれる。従来の百貨店や業界だと、『従来よりあるから。去年からあるから』という前例主義やしがらみがどうしてもあるのですが、イオンにはそれがありませんでした。お客様にとって価値があるモノを、適正な価格で適正な量を適正なタイミングで出そうという考え方です。

井上先生もよくご存知の、ペガサスクラブの渥美俊一さんが唱えたチェーンストア理論ですよね。1962年に設立されたペガサスクラブの初期メンバーには、ジャスコの岡田卓也氏やダイエーの中内功氏、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊氏など当時30代の若手経営者たちがいました。ペガサスクラブを設立した渥美俊一さんは、メンバーと毎年アメリカ視察し、アメリカからスーパーマーケットの大規模、多店舗化のノウハウ(チェーンストア理論)を持ち込みました。イオンさんとの取引で学んだことも多いですし、それによって会社を存続できたと思います」

井上――「時流をつかむことができたというわけですね」

木本――「たまたま世の中に合ったスタイルをしていたというだけだと思っています。国内のメーカーだけでなく、海外にもよく買い付けに行きました。チェコやスロバキア、ポーランド、ハンガリー、ドイツ……40か国くらいの硝子工場を回りました。その国々で買い付けた商品をイオンに入れていたんです。

『価値あるものを合理的に安くしたい』というのが当時の岡田さん(イオン)の考えで、暇な時期に作るとコストが安くなるとか、量を買うと安くなるとか、従来と違う作り方を違う工場ですると安くなるとか。こういうロジックや調達方法だと、通常1万円のものが半額以下で売れるようになるというようなチャレンジですよね。

たくさんの国や硝子工場を回ったことで学んだことも多いです。競争相手は、ある意味、三菱商事や三井物産や伊藤忠。ただ、総合商社は何でもできるけど硝子食器のことは詳しくない。うちは硝子食器に特化していたので、それが強みです。イオンさんと取引していることで、体力やノウハウも増えていきました。消費税が導入された頃、硝子食器を扱う問屋もどんどんなくなっていったのですが、うちは生き残ることができました」

井上――「海外を飛び回るフットワークの軽さや、当時はまだ数店舗しかなかったイオンさんとの取り組みを決めた木本さんの判断力が素晴らしいと思います。なぜそんな判断ができたのでしょう?」

木本――「大学でマーケティングを学んでいたから、業界の常識にとらわれない姿勢があったのだと思います。それと、チャレンジする精神があった。祖父も親父も真面目なんだけどやることは徹底的にやる人で、『他がやらないならやれ』と言われていました。だから自分でやったんです」

価値観を共有することが重要

井上――「木本さんとの出会いは、ニューヨークにいく全日空の飛行機の中でしたね」

木本――「そうですね。今でもよく覚えていますよ。ちょうど50歳になる頃で。社長はだれも褒めてくれないしご褒美もくれないから、ニューヨーク視察ツアーに申し込んだんです。そこに井上先生がいたのが出会いでしたね。ニューヨークで、アパレルや食べ物のトレンドを見たかった。やっぱりニューヨークは世界の中心という感じがして、ニューヨークというプラットフォームで、ジャズや音楽、ショー、食事、ファッション、インテリア……すべてがエンターテイメント。人生を愉しんでいる感じがした。滞在中は2人でバーでよく飲みましたね(笑)」

井上――「本当に楽しい視察でした。私の場合、あのときの視察で今に影響していることがあって。ニューヨークのソーホー地区に工場跡地を商業施設に変えているところがあったじゃないですか。それを見た影響で、私たちの本社オフィスは200坪の元スーパーだったところを改装してオフィスにしたんです。当時はそんなことをする会計事務所や税理士はいなかったから、物件を借りるとき大家さんから『え? ここを会計事務所にするの?』とすごく驚かれました」

木本――「そういう発想の人はいなかったのでしょうね。井上先生は、当時から斬新だった(笑)」

井上――「木本さんにとって、あの視察はいかがでしたか?」

木本――「迷いのあった時期だったので、井上先生との出会いも含めて良い刺激を得た視察でした。当時はまだ別の税理士さんに仕事をお願いしていたのですが、井上先生とはmixiでやり取りを始めて。アグレッシブで面白い税理士さんだなと思って、今では顧問税理士になってもらったし、頼りにしていますよ」

井上――「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。木本さんは、3代目でありながら必死になって新しい会社をつくろうという想いがある方で、とてもリスペクトしています。私は税理士業界で異端なようでいろいろと言われるのですが、木本さんも業界ではいろいろと言われるのではないかと思います。でも、良い意味の確信犯。そんな確信犯が業界を変えていくのではないかと思っていて」

木本――「確信犯というのは、確かにそうかも。でも、寂しがり屋だから仲間を募るんですよ。ある目的やミッションに対して、価値観を共有できる人たちが集まる。それがワンチームになって良い仕事ができる。ラグビーもそうじゃないですか。2019年のワールドカップでは日本代表としてチームになったけど、普段はそれぞれのチームで競い合っているライバル同士。それが、1つの目的やミッションによって集まる。そういうのが良い。

10年ほど前から、台東モノマチ協会(正式名称:台東モノづくりのマチづくり協会)という行政などにとらわれない自主的な活動を始めて、地域イベントを主催しています。『モノづくりで町おこし』を目的とした組織です。新しいことを始めるのは確かに大変なこともあるけど、価値観を共有できていれば話が速い。今ならSNSもあるし、ツールを使って距離を縮める。時間を短縮する。精度を上げていく。そういうことが今はやりやすいので、みんなどんどんやったら良いと思いますよ」

井上――「チャレンジ精神に溢れている木本さんとのお話は勇気と元気をもらいますね」

(次回に続く……)