シンガーソングライターのさだまさしが、28日に放送される読売テレビのバラエティ番組『八方・陣内・方正の黄金列伝!』(28日16:30~17:30 ※関西ローカル)に出演する。

  • さだまさし=読売テレビ提供

幼少から青年期にかけての苦悩、曲に対するバッシングや借金地獄といった波乱万丈の人生があったさだ。何度も迎えた逆境の中、何を思い、復活を遂げてきたのか。そんな彼の歴史を、そのときどきの幸福度を表す「幸せ・不幸せ度グラフ」で振り返りながら探っていく。

まずは「さだまさし デビューまでの地獄の道のり」と題し、幼少期の苦難の歴史を振り返る。長崎で材木商を営む裕福な家に生まれたさだは、3歳からバイオリンを習い始め、音楽エリートとして育てられた。8歳の時に父の会社が倒産し、生活は一変するもバイオリンだけは続け、13歳でプロを目指すべく上京。下宿生活を送りながら練習に励んだ。

しかし、音大に入学すると想像以上の苦労からバイオリニストの道を断念。不眠症を発症しノイローゼになってしまう。その後、喪失感を埋めるべく昼夜アルバイトに励むも、無理がたたったのか黄疸を出すまでに体調が悪化。20歳にして長崎に帰ることを決断する。

失意の帰郷でだったが、東京から高校時代の友人・吉田政美がやってきたことでさだの人生はまた動き始めた。中学生のころから加山雄三に憧れ、ギターで作詞作曲をしていたさだは、吉田とともにフォークデュオ「グレープ」を結成。内心プロになる気も、ボーカルをする気もなかったが、ジャンケンで負け、ボーカルはさだが務めることになった。

そんなさほどでもないモチベーションで滑り出した「グレープ」だったが、さだの弟の草の根的な営業も功を奏してか、5カ月後にはキャパ1,500人の長崎公会堂を満席にするほどの人気を博すように。正式にスカウトされてプロデビューすると、21歳でリリースしたセカンドシングル「精霊流し」がヒットし、幸せ度は80にまでアップ。翌年も「無縁坂」が当たり、順風満帆かと思いきや、意外な世間の反応に幸せ度はダウン。さだを苦しませた、言いがかりともいえるようなバッシングとは。

1976年には再度体調を崩し、グレープの解散を決断。幸せ度はマイナス100のどん底へ。しかし知己のプロデューサーから「音楽を続けなさい」と激励を受け、ソロとして復帰することを決意する。活動再開後は「雨やどり」「案山子」が立て続けにヒット。そして27歳で発表した「関白宣言」は、さだのシングルにおける最大のヒットとなり、華麗なる復活を果たすのだが、この曲の歌詞にまたもや賛否両論が巻き起こる。

仕事で訪れた中国で世間からの批判を吹っ切ったさだは、両親が生まれ育った中国という国をより知るべく、なんとドキュメンタリー映画を製作することを決意。さだの意欲作にして超大作『長江』は当時のドキュメンタリー映画としては異例のヒットとなるが、撮影に1年半を要したこともあって莫大な製作費がかかってしまい、到底興行収入では埋め合わせることのできない28億円の借金だけが残った。当時31歳。その年に結婚したさだの、偽らざる本音とは…。

借金返済のため、より精力的に活動することとなったさだ。年間のコンサート数は100回を超え、49歳で依頼を受け執筆した自伝的小説『精霊流し』はテレビドラマ・映画化も果たした。借金を抱えつつも充実した芸能活動を送る中で幸せ度は右肩上がりを続けるが、2011年の東日本大震災はさだの心境にも変化をもたらす。当時のさだの様子を、何度もステージで共演している先輩ミュージシャンである泉谷しげるが証言する。

2020年までに開催したコンサートは4,400回を超え、5月には新アルバム『存在理由』をリリース。新盤に込めた願いや、新型コロナウイルスに揺れる世の中に対する思いも語る。さらに憧れの人、加山雄三がVTRで登場、さだへのメッセージとは。