■1年のうちに72両を新製投入 、約184億円を投資
近畿日本鉄道の新型名阪特急「ひのとり」(80000系)が3月14日に営業運転を開始してから、3カ月近く経過した。その間に新型コロナウイルス感染症の感染拡大があり、緊急事態宣言が全国に出されるなど、鉄道業界は苦しい状況にあった。世情が沈静化するであろう今後は、大阪難波~近鉄名古屋間を走る名阪特急の主力車両として「ひのとり」をアピールし、利用客の獲得をめざすことになる。
5月末の時点で、「ひのとり」は名阪特急のうち停車駅が少ない列車(「名阪甲特急」と通称される)6往復に充当されている。このうち土休日の1往復が新型コロナウイルス感染症に伴う利用状況等から運休となったが、6月13日に運転再開する予定。同日には、「アーバンライナー」からの置換えで「ひのとり」が増発され、平日10往復・土休日11往復の運転となる。新製を予定している計72両(6両編成8本、8両編成3本)は2021年3月までに出そろい、名阪甲特急はすべてこの車両で運転する計画である。
公表されている「ひのとり」への投資額は約184億円。1両あたり2億5,500万円強となる。鉄道車両の価格は、一般的なもので1両あたり2億円程度と言われており、それと単純に比べれば高い。ただ、一度に72両も発注してスケールメリットを享受することで、割安に抑えたと言えるかもしれない。
この72両、184億円という数字は、思いきった投資だ。最近の大手私鉄における新型特急車両の例では、西武鉄道001系「ラビュー」の56両が多いほうで、小田急電鉄70000形「GSE」が14両。東武鉄道500系「リバティ」は24両にとどまっている。
もちろん鉄道車両は、必要に応じて車両メーカーに発注されるものだが、近鉄は一気の経営改善、旅客に対するサービスアップを図ったとも言えよう。同社の中期経営計画では、2019~2023年度の5カ年累計で、鉄道に対する投資額を1,300億円(1年平均260億円)としているから、看板車両「ひのとり」の比重の高さがわかる。
■客単価のアップを狙う?
「ひのとり」は両側の先頭車が「プレミアム車両」、その他の中間車が「レギュラー車両」となっている。6両編成の場合、編成全体の定員は239名になる。
見逃されがちだが、「ひのとり」以前の名阪甲特急の最新車両21020系「アーバンライナー next」は、6両編成で302名も定員があった。つまり、「ひのとり」は既存車両に対し、20%以上も定員を減らしている。座席間隔を広げるなど、1人あたりのスペースを拡大したためである。「プレミアム車両」の場合、JR東日本の新幹線「はやぶさ」などに設けられた「グランクラス」と同等の1,300mm、「レギュラー車両」でもJRのグリーン車と同等の1,160mmを確保しているのだ。
さらに、座席はすべて後ろの席を気にせずにリクライニングできるバックシェルタイプで、プライバシーを重視した。車内販売も行われず、代わりに飲み物と軽食の自動販売機を設置。静粛性を確保るす一方、気分転換もできるように工夫されている。
ゆったりとした空間を占有できるため、「ひのとり」の料金は他の特急列車と比べて割高に設定された。大阪難波~近鉄名古屋間はこれまで、運賃・特急料金の合計で4,340円。1クラス上のデラックスシートを利用した場合、これに520円が追加され、4,860円であった。これに対し、「ひのとり」は「レギュラー車両」が4,540円、「プレミアム車両」だと5,240円である。1人あたりの客単価をアップし、それに見合うサービスを提供して、営業上の効率も上げようとの意図と見ていいだろう。
もとより近鉄特急は東海道新幹線に対し、所要時間では対抗できない(名阪甲特急の約2時間に対し、東海道新幹線「のぞみ」は約50分)。それゆえ、ゆとりを前面に打ち出し、かつ6,680円となる新幹線の運賃・料金(「のぞみ」通常期)より割安感をアピールする戦略を昭和40年代から取っている。それを「ひのとり」でさらに強化した形だ。
■大量投入は老朽車両の置換えと省エネ対策
大量に車両を新製投入し、デビューから約1年で近鉄の主力運転系統である名阪甲特急をすべて置き換えるのは、大阪・名古屋間の特急列車イコール「ひのとり」というイメージを早くに定着させるための施策だろう。乗車する列車によって、「ひのとり」であったり従来の車両であったりすると、やはり利用者を戸惑わせる。
その一方で、一気に名阪甲特急を置き換え、捻出される特急車両を他の系統に転用し、「玉突き」で老朽化した車両を早急に取り替える意図もある。近鉄はすでに、最も古い12200系「スナックカー」を2020年度中に全廃する計画を公表している。この車両は1969~1976年に製造され、すでに初期の車両は廃車が進んでいるものの、いまも残る数が「ひのとり」の新製両数にほぼ等しいのだ。
「スナックカー」だけでなく、通勤通学向けの一般車でも、近鉄は車齢40~50年程度の車両を多く抱えている。しかも、そうした車両は耐久性に劣る鋼鉄製であり、抵抗器で電気を熱に変えて速度を制御する「抵抗制御」と呼ばれる走行システムを使っている。省エネ性能では、新型車両に及ぶべくもない。
こういう状況に至ったのは、バブル崩壊後の不況期に設備投資を控え、老朽化した車両も補修や改造を加え、延命を図ってきたため。だが、さすがに限界を迎えた状況がうかがえる。鉄道車両の寿命は一般に30~50年程度といわれる。さらに鋼鉄製車体、抵抗制御の車両は、日常的な補修費・電力費が新型車両と比べて大きくかさむ。経営上からは早く淘汰すべきだが、先述したように、車両を新製するために大きな初期投資が必要になる。それを抑制せざるをえなかった社会事情、ひいては経営状況が、これまで大手私鉄を悩ませてきた。
「ひのとり」が一気に投入されたことは、近鉄がこれまで味わってきた“苦しさ”を表しているともいえる。もうこれ以上は待てない苦衷も感じられる。近鉄のシンボルは2階建て車両と思う向きも多かろう。だが、30000系「ビスタカー」も営業運転開始は1978(昭和53)年。鋼鉄製車体、抵抗制御なのだ。「スナックカー」を淘汰できたところで、そのすぐ後にも取り替えるべき車両が控えている。
近鉄にとって、老朽化した効率の悪い車両の廃車・置換えは、経営上、突きつけられた「待ったなし」の課題といえる。「ひのとり」ほどの派手さはないだろうが、リモートワークの普及で通勤利用者の減少も見込まれる中、車両に対してどのような投資を行うのか、注目されるところだ。