所要の人員を確保するという課題
以前の拙稿でも指摘していたかと思うが、病院船というのは、出動命令を下せば直ちに出動できる、というほど簡単なモノではない。まず、そこに乗り込む医療要員に招集をかけなければならない。マーシーは1,000名あまりの収容が可能な巨大船だから、そこに乗り組む医療要員の数も膨大で、800名あまりになるという。
ただし、先にも述べたように、マーシー級はCOVID-19に感染した患者を直接扱うわけではない。先に紹介した米国防総省の記事には、以下のような記述がある。
“The Mercy normally handles combat casualty care, and its crew will not treat patients with the coronavirus, the admiral said. The ship and its staff will offer a broad range of medical and surgical support, with the exceptions of obstetrics and pediatrics.” (マーシーは通常、戦傷者を治療するものであり、[今回の出動でも - 井上注]コロナウイルス患者の治療は行わない。この艦とスタッフは医療・外科医療関係者への支援を行うが、産科と小児科は除く)
軍の病院船が抱えている機能的な制約が、この文章にしっかり現れている。軍の病院船が外科医療にフォーカスしている以上、そこに乗り組むスタッフも同様に、外科医療にフォーカスした陣容にならざるを得ない。なにしろ、戦傷者治療の現場に産科や小児科は縁がないのだから、それが対象外になるのは当然である。
それに、単に「医師」や「看護師」の肩書があるだけでなく、平素から実務経験を積んでいなければ仕事にならない世界だ。病院船が常にどこかに出動しているわけではないから、医師や看護師は市中から招集しなければならない(米軍の場合、予備役の医師や看護師がいるから、まずはそこから招集することになるのだが)。すると当然ながら、市中の医療機関からその分だけの人が減る。その問題をどう解決するのか。
これは、病院船を誰が保有・運用していようが、同様について回る問題である。
病院船に対して夢を見すぎていませんか
こうした事情を正しく理解しておらず、ただ単に「病院船」という名前から「洋上を自由に移動できる総合病院」ぐらいのものを連想しているのが、「病院船導入論者」の実態ではないだろうか。
少なくとも、現時点で存在する病院船の実態は先に述べた通りであり、感染症対策における「銀の弾丸」にはなり得ない。それと同じものを配備したところで問題の解決にならない。
かといって、感染症患者を隔離するための大規模な専門施設を備えた病院船をこしらえたところで、平素にそれをどう維持するかという問題がついて回る。そうした船に日常的に出番があるようでは、それはそれで大問題だ。
そして、常に出番があるわけではない病院船というアセットについて、船と設備、そしてそこで働くスタッフの確保と技量維持をどうするか、という課題がついて回るのは、先にも述べた通り。「病院船導入論者」のうちどれだけが、そこまで考えているだろうか。
「それなら、通常の病室をそのまま使って、後で消毒すれば?」という声が上がるかもしれない。しかし、それはそれで大変な手間がかかる作業だ。船ではなく飛行機の話だが、ちょうどエティハド航空が「機内をこんな風に消毒しています」という動画をリリースしているので、見ていただきたい。旅客機・1機でもこうなのだから、大きな船の中をまるごととなったら、どれだけの手間がかかるだろうか。
Cleanliness and Hygiene on Our Flights | Etihad Airways
著者プロフィール
井上孝司
鉄道・航空といった各種交通機関や軍事分野で、技術分野を中心とする著述活動を展開中のテクニカルライター。
マイクロソフト株式会社を経て1999年春に独立。『戦うコンピュータ(V)3』(潮書房光人社)のように情報通信技術を切口にする展開に加えて、さまざまな分野の記事を手掛ける。マイナビニュースに加えて『軍事研究』『丸』『Jwings』『航空ファン』『世界の艦船』『新幹線EX』などにも寄稿している。