公開中の『HiGH&LOW THE WORST』(以下ハイロー)に鬼邪高校の番長・村山良樹として出演中の山田裕貴。村山は本編中で「退学届」を出し、鬼邪高校定時制を卒業することに。15年放送の『HiGH&LOW ~THE STORY OF S.W.O.R.D.~』シーズン1に登場以来、4年間、愛されてきた山田裕貴の村山がこれで見納めなのかとざわつかせている。
オラオラ系の強面ぞろいのハイローの登場人物のなかで、数少ない脱力した明るい雰囲気を漂わせる村山。軽みのある彼のおかげで、やたらとチカラが入りまくったハイローの世界でほっと一息入れられる。とはいえ腕っぷしはめっぽう強く、油断ならない感じが逆にこわい。あくまで己の拳のみで勝負する、ドラッグなどの非合法なものには手を出さないというクリーンさも良い。公開中の『ハイロー』でもトリッキーな喧嘩を魅せた(あえて「魅せて」と書いてみました)。 『ハイロー』は山田裕貴の出世作のひとつだが、19年は朝ドラ100作記念作『なつぞら』出演し、番宣で『あさイチ』に吉沢亮が出たとき証言出演したり、『ごごナマ』にゲストで出たり、スピンオフドラマにも出たりと、それによって認知度が大幅に上がったことだろう。
2019年、俳優として新たなフェーズに入ったと思われる山田裕貴のこれまでをかんたんにおさらいしてみる。父親の影響で野球をやっていたが高校時代にプロの道を諦めて俳優を目指す。若い男性俳優を多く擁するワタナベエンターテインメントに所属し、戦隊モノ(『海賊戦隊ゴーカイジャー』)に出演、事務所の屋台骨である若い男性俳優の集まりD-BOYSに加入、テレビドラマや映画に数多く出演。『ハイロー』で人気を博し、『朝ドラ』でも注目される(イマココ)。『野球』『D-BOYS』『戦隊』『ハイロー』『朝ドラ』…若手男子俳優の登竜門的なものをコンプリートした感がある。足りないのはテニミュ出演のキャリアだけだ(冗談です念の為)。
筆者の個人史としての山田裕貴は、菅田将暉主演映画『あゝ荒野』(17年)で飢えた野生の獣のような瞳をしたボクサーの役が印象的で、凄みのある俳優というイメージだったのだが、私がノベライズを担当した、岡田惠和脚本の連ドラ『スターマン・この星の恋』(13年)で素朴な地方都市の青年を演じていた俳優だと思い出したときの激しい衝撃。これが忘れられない。
出演作はとても多く、どんな役でもきちんとこなしすぎるあまり、作品に溶け込み過ぎるという意味でのカメレオン俳優なところがあるも、喧嘩アクションもの『ハイロー』で肩の力を抜くキャラを演じたことで頭角を現し、それが『なつぞら』にもつながったといえるだろう。この時代、若手俳優がたくさんいて、群像劇に投入されるしかない状況下、どうやって一歩抜きん出るか、誰もが課題にしているであろう中で、山田は『あゝ荒野』のような凄みを磨くのではなく、特徴ある上瞼の目尻にかけての切れあがり具合が匠の絵のような瞳のチカラを緩めるという逆転の発想で集団から飛び出した。
■名優と同じ考え方
『なつぞら』では広瀬すず演じるヒロインの幼馴染で、実家の菓子店のあとを継がないといけないが、演劇が好きで東京で劇団に入る。主役に抜擢されるところもまでいくが、自分の才能に見切りをつけて実家の後を継ぐ役だった。この役・雪次郎には、役者は「普通」が良いという持論があり、番宣で山田はその考えは自分がかねがね思っていたことだと共感を寄せた。それを耳にした脚本家・大森寿美男は、「普通」「アマチュア精神」は日本の老舗劇団・文学座の名優・中村伸郎が言っていたことだから、名優と考え方が同じなのだから自信をもっていいと語っていた。
このアマチュア精神とはなにか、普通であれという考え方はなんなのか、山田裕貴が中村伸郎の言葉を読んでいたかが知らないが、中村伸郎の考えが詳しく書かれた本がある。劇作家・如月小春が取材して書いた『俳優の領分―中村伸郎と昭和の劇作家たち』だ。そこには「アマチュア精神」と言ったのは作家の岸田國士だとある。演劇界の芥川賞とも言われる岸田戯曲賞の岸田は岸田國士のことである。中村は「アマチュア精神」を受けて、俳優は「素人」であることを新劇俳優の重要な資質としている。素人の対極の「玄人」は伝統演劇や商業演劇の俳優たちを指しているだろうと如月小春は書く。「玄人」は「型」を使って、たくさんの人たちが等しく理解できる状態を演じる俳優。「素人」は「型」にあてはまらない俳優。山田が群雄割拠の若手俳優戦国時代のなかで、強さや二枚目方向でなく、「普通さ」で勝負に出たことは賢明だったのではないか。
先達の演劇人も追求した「普通さ」が生きたのが、現在上演中の主演舞台『終わりのない』だ。映画にもなった『散歩する侵略者』などSF作を多く書いている劇作家・前川知大が、古代ギリシャの英雄冒険譚『オデュッセイア』を、世界はこの世界ひとつでなく無限に増幅しているという量子力学と結びつけて描いた壮大な物語で、山田が演じる高校三年生の悠理が現在、過去、未来、それも平行世界を行き来する。そこで見るものは何なのか……。ごくごくふつうの十代の少年が様々な世界を見るという話に、山田裕貴の醸す普通さは重要だ。立ち方も話し方も、いわゆる舞台的なところはなく、フード付きアウターのファスナーをあげてフードをかぶる仕草も、その時その時、出会った人たちや出来事へのリアクションも実にナチュラルで、おかげで高尚なお話にもついていこうという気持ちになる。ところが、ある時代、ある場所にいるときの彼はガラリと様相を変えていた。腹式呼吸で朗々と語るのだ。こういうのもしっかりやれるところがさすがカメレオンと言われる所以。おそらく普通すらも意識して演じているのだろう。ぼそぼそっと日常のようなしゃべり方でも客席にちゃんと聞こえる技術があることも舞台で感じさせた。ナチュラルの度合いを慎重に測りながら芝居する真摯さが好ましく、いい意味で普通じゃない瞳のチカラを抑制しながらいつまでもどこまでも普通さを極めていけたらホンモノだ。
※木俣冬俳優レビュー特集はこちら!