Appleは2019年中に、これまでデザイン最高責任者(Chief Design Officer、CDO)を務めてきたジョナサン・アイブが同社を去ることを発表した。6月に開かれたWWDC19以降のAppleにとって、いや今年のAppleにとって、最も大きなニュースだったと振り返ることができる。
これによると、アイブはLoveFromという新しいクリエイティブ事務所を立ち上げ、Appleはその新事務所の顧客になるという。ティム・クックCEOは「アイブ氏はこれまで通りAppleのデザインに携わる」と書簡で伝えている。
しかし、社内と社外、フルタイムとクライアントワークという違いが生まれるのに「これまで通り」というのはいささか無理がある、というのが一般的な感想といえるのではないだろうか。
ジョブズに出会ったアイブの輝き
ジョナサン・アイブは1992年からAppleで工業デザインに携わってきた。1997年にスティーブ・ジョブズがCEOに復帰した際、工業デザインのトップについた。
伝記「スティーブ・ジョブズ」には「Jony Ive」という章が用意されており、ここでジョブズとアイブが出会ったときの話が書かれている。
Macintoshを使ってデザインを学んでいたアイブは、この製品を作っている人々とのつながりがあると感じたことを明かした。そんなアイブがジョブズと出会ったとき、最大級の敬意を払っていたに違いない。ジョブズからすれば、Appleに戻ってきて社内を歩き回っているときに、アイブと工業デザインチームに出会うシーンが描かれている。アイブの類い希なるセンスを登用した結果、Appleが今日までどんな歩みを遂げたかは、ご存じの通りだろう。
かつてAppleからジョブズが去ってから、Appleは会社として存続すら危ぶまれる状況にあり、デザインや製品の良さではなく、利益を優先する会社になってしまっていた。アイブは、そうした状況のAppleを辞めようと思っていたという。
しかしジョブズと出会い、アイブ主導でデザイン性の高い製品をもって勝負をかけて成功していく道を選び取ることができた。
半透明のトランスルーセントのカラフルなボディをコンピュータに持ち込んだiMac、既存の技術を先進的なインターフェイスとともにシンプルなポリカーボネイトと鏡面仕上げのステンレスボディで包み込んだiPod、全画面デザインを採用するiPhone、影をも操りアルミニウムの板が浮いているようなデザインを採用したMacBook Air、あえて丸くせずアイデンティティを確立したApple Watch。
これらの製品を作り出せたAppleの原動力となる部分が、アイブに対して絶大な信頼を寄せ、工業デザインチームを最大の意志決定機関にしたジョブズが作り出した絆だった。
アイブはなぜAppleを去るのか?
アイブは2019年中にAppleを去るという。このことに対して、憶測も含めたさまざまな評価や感想が寄せられている。
ただし、この発表があっても日常的な株価の変動しか起こさなかったところを見ると、少なくともウォールストリートは「アイブの退社が現在のAppleの価値を大きく毀損するものではない」と考えているようだ。
アイブは工業デザインから、インターフェイスなどのソフトウェアも含むデザイン全般をカバーする役割になっていたが、近年はApple Parkなどの建築に専念するための時間を持つことになった。
Apple Parkは2017年に供用を開始しているが、それまでの間にApple Storeも「タウンスクエア型」と呼ばれる新しいスタイルへと移行を開始しており、Apple体験を重視するコンテンツとファシリティの組み合わせが世界中に拡がっていった。
アイブの興味が、プロダクトデザインからこうした空間のデザインへ移ったと見る向きもある。その一方で、Appleにおけるアイブのデザイン上の役割が、工業デザインから大幅に拡大していたことも事実だった。
デザインはいつか完成する
デザインにはさまざまなトレンドがあり、かつて流行した形やスタイルが再びリバイバルすることもある。あるいは、レトロなイメージを取り入れたデザインがもてはやされたり、定番化して形を変えないモノも増えている。
そうした視点と、アイブが追究していた「ミニマリズム」という概念を組み合わせると、Appleにおける多くの製品の基本的な形が極限までシンプルなレベルで完成されていた、と見ることはできないだろうか。
個人的に、最も良い例だと感じているのが、2018年10月に登場したiPad Proだ。ホームボタンを排除し、Liquid Retinaディスプレイを前面に敷き詰め、背面はカメラ部分以外が平らなアルミニウムの平面とした。側面は6mm以下の厚みで垂直に立ち上がり、丁寧に角が落とされている跡がある。
このデザインを見て、筆者は「アイブがAppleを辞める理由」の一端をメッセージとして受け取ったのだ。つまり、iPadに与えるデザインがこれ以上見当たらない、これ以上シンプルにすべき箇所がない、というレベルにまでiPadは完成されたという解釈である。
もちろん、ディスプレイ技術の変化や、容積と重さを一定量確保しなければならないバッテリーが劇的に進化することで、より軽くなったり、より薄くなったり、あるいはさらに大きなサイズになるかもしれない。しかし、これ以上形として何かできる要素は失われていると思うのだ。
同じことが、MacBookシリーズ、iPhone、iMacにもいえる。iMacについては、ディスプレイやTシリーズのチップ搭載など、まだまだ遅れている要素があり、これに伴ってデザインが変わる可能性はあるが。
アイブがシンプルにできる余地がなくなってきたという事実は、Appleという企業の製品に限界を感じるようなネガティブな印象も持たれるかもしれない。だが、さまざまなジャンルの製品を完成形に近づけたことは、アイブの功績として高く評価すべきだと思うのだ。
(続く)
著者プロフィール
松村太郎
1980年生まれのジャーナリスト・著者。慶應義塾大学政策・メディア研究科修士課程修了。慶應義塾大学SFC研究所上席所員(訪問)、キャスタリア株式会社取締役研究責任者、ビジネス・ブレークスルー大学講師。近著に「LinkedInスタートブック」(日経BP刊)、「スマートフォン新時代」(NTT出版刊)、「ソーシャルラーニング入門」(日経BP刊)など。Twitterアカウントは「@taromatsumura」。