京急電鉄が1月21日、「開業120周年記念式典」を京急川崎駅の大師線ホームにて執り行った。今回の記念式典はなぜ、京急電鉄本社などではなく京急川崎駅、しかも本線ではなく大師線ホームで行われたのだろうか。
ご存知の人も多いと思うが、京急電鉄の歴史は大師線から始まっている。以下、その歴史を簡略にひもといてみよう。
■川崎大師への交通手段を人力車から電車に
京急電鉄の設立者である立川勇次郎(1862-1925)は、馬車鉄道や蒸気機関が主流の時代に「電気鉄道事業計画に早くから参画した人物」(『京浜急行八十年史』京急電鉄編)だったという。
立川勇次郎は、東京市内で電気鉄道敷設免許を出願したが時期尚早と判断され、却下される。そこで、まずは東京市外で「関東ニ於ケル電気鉄道ノ標本ヲ実験」(『京浜急行八十年史』)し、企業としての電気鉄道事業の成功例を示そうと、官鉄(現・JR)の川崎駅から川崎大師を結ぶ電気鉄道の計画を立てた。
当時、川崎大師は「汽車に乗って手軽に郊外散策ができるという東京市内の諸寺社にはない魅力を持つ仏閣となった」(『初詣の社会史』平山昇著)ことから、行楽地としてにぎわいを見せていた。川崎駅から川崎大師までの交通手段として人力車が使われていたようだが、これを電車に置き換えることで、さらに交通の便を良くしようと考えたのだ。
しかし、この計画は当然のように人力車夫から猛反対を受けることになってしまう。また、道路上に軌道を敷設するには道路を拡幅する必要があったが、「川崎町内人家密集地域における道路拡幅、軌道敷設の困難を避ける」(『京浜急行八十年史』)ために、いったん官鉄の川崎駅との接続をあきらめ、多摩川にかかる六郷橋のたもとに「六郷橋」(開業当初は「川崎」) 駅を設置し、ここを川崎側の起点にした。
こうして京急の前身となる大師電気鉄道が、1899(明治32)年1月21日に六郷橋~大師間の営業距離約2kmで開業した。1月21日は川崎大師の初縁日に当たるため、初縁日にあわせて開業したという切り口で語られることが多いようだが、当初の計画では1898(明治31)年10月の開業を予定していたという。ところが、輸入品の発電機などが製造会社の倒産により届かなかったため、やむをえず開業を延期し、翌年1月の開業になったのだ。
開業後の営業成績は好調で、1899(明治32)年5月末までの乗車人員は約16万人、1日平均1,224名が利用したという。開業から3年後の1902(明治35)年には、官鉄の川崎駅近くまで延伸も完了している。
■開業当時の大師線の経路跡を歩いてみる
1906(明治39)年発行の地形図(川崎市立中原図書館所蔵)を見ると、当時の大師線は現在とかなり違う経路を走っていたことがわかる。この経路跡を実際に歩いてみた。
明治時代の大師線は、川崎停留所(現・京急川崎駅)から六郷橋に向かって北東に進んだ後、現在は「ラーメン二郎 京急川崎店」のある国道409号と交差する角の手前から東に進み、本町交差点付近で旧東海道に入って六郷橋に至っていたという。
六郷橋~川崎停留所間の工事に関して、「川崎停留所付近は新設軌道」(『京浜急行八十年史』)としたというから、川崎停留所から「ラーメン二郎」の角までは当初から専用軌道であり、その先は道路上を走る併用軌道だったと推定される。
本町交差点付近の街路灯の支柱に「大師電気鉄道 六郷橋停留所跡 200m先」と示す案内板が出ているので、これに従って進むと、六郷橋のほぼ真下に位置するためにわかりづらいが、駅舎とプラットホームの痕跡が残っている。ただし、この駅は開業当初の初代の駅ではなく、1926(大正15)年の道路整備にともない川崎駅側に移転され、1949(昭和24)年の駅廃止まで使われていた2代目の駅である。
初代の駅は路面電車の電停のようなものだったかもしれず、正確な位置を特定するのは難しいが、六郷橋の東側にあったのだろう。この付近の多摩川の土手上には、「六郷の渡し」跡がある。この渡し船は、1925(大正14)年にコンクリート製の六郷橋(先代の六郷橋)が完成するまで運航されていたというから、渡し船との接続が良い位置に駅があったと考えるのが自然だろう。
六郷橋から先、当時の大師線の線路は現在の経路よりも南の大師新道(現・国道409号)を通って、川崎大師に至っていた。
■立川勇次郎が設立「京急電鉄が長男、養老鉄道は次男」
以上の歴史を踏まえて、1月21日に行われた京急電鉄「開業120周年記念式典」の様子をお伝えする。
式典の来賓として、立川勇次郎のひ孫に当たる立川元彦氏と、立川勇次郎が生まれ故郷の岐阜県大垣市に戻った後、1911(明治44)年に設立された養老鉄道の代表取締役社長、原恭氏が招かれた。養老鉄道は立川勇次郎により設立された後、揖斐川電気との合併・分離を経て、参宮急行電鉄(現・近鉄)と合併。長きにわたり近鉄養老線として運行されたが、2007年に養老線の運営を引き継ぐ、現在の養老鉄道が設立された。
来賓挨拶の中で、立川元彦氏は「私の曾祖父である立川勇次郎にとっては、京急電鉄が長男、養老鉄道は次男。本日の式典で、2人の息子が100年ぶりに再会したことを空の向こうでとても喜んでいると思います」と語った。
続いてくす玉が開披され、記念モニュメント「0キロポスト」の設置が行われた。この「0キロポスト」は、京急電鉄の支線である大師線の起点を示すものとなる。現在、京急川崎駅の大師線ホームは1~3番線まであり、「0キロポスト」は夕方以降の数本のみの降車専用ホームとして使われている1番線の線路脇に設置された。
最後に「京急と養老をつなぐキャンペーン」についても紹介しよう。京急電鉄が開業120周年を迎える一方で、養老鉄道も今年4月27日に全通100周年を迎える。これを記念し、京急電鉄と養老鉄道をつなぐスタンプラリー(5月19日まで)や記念ヘッドマークの掲出(8月16日まで)などが行われる。他にもイベントを企画しており、詳細は決まり次第、発表するとのことだ。