就職氷河期に新卒となった「ロスジェネ」世代

「ロスジェネ(ロストジェネレーション)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。厳密には「ロスジェネ」は、就職氷河期に大学を卒業し新卒となった世代のことを言い、1972年から1982年に生まれた人々のことを指す。今のアラフォーと呼ばれる世代とも重なっている。

この言葉が提唱され始めたのが今から10年ほど前で、その頃の彼ら(私も含む)は25歳から35歳であったから、どちらかというと「ゆとり世代」とも同じように今時の若者を指す言葉であったのだと思う。「ゆとり」や「ロスジェネ」の前には、「新人類」という言葉もあった。

しかし、このロスジェネ世代が再び脚光を浴びている。しかも、あまり喜ばしくない方向でだ。例えば、ロスジェネ世代は、新卒の時期が就職氷河期であったため、正社員になれなかった人が多い。今年6月、内閣府の発表したデータによると、正社員の給与が5年前に比べ、40代だけが減少していたと発表された。

こうした現象は、ロスジェネだけにふりかかる問題ではない。ロスジェネは同時に団塊ジュニア(1971年から1974年生まれ)も含まれる。人口のボリュームゾーンの雇用に問題があるということは、社会全体の経済に影響を及ぼすことが考えられるからだ。こうした現象は、昨今ではドキュメンタリー番組やWEBの記事でも取り上げられることも多くなった。中でもNHKクローズアップ現代の『アラフォー・クライシス “不遇の世代”を襲う危機』によると、20代で研修が受けられずスキルがない、40代で非正規が長引くと、マネジメント力や部下育成の経験を求められるので転職も難しいということが描かれていた。そうなると、これもNHKで放送されていた番組のタイトルにも使われていたが、労働市場から排除された状態が続き、「ミッシング・ワーカー」になっていく可能性も高いのだ。

当のロスジェネがこうした状況にさらされて感じていることと言えば、「こんなはずではなかった」ということかもしれない。親世代は、30歳前後で自分たちを生み、マイホームを手に入れた。その父母に育てられ、進学率も上がって大学に行ったものの、当時の「フリーター」や「自分探し」の空気に押され、モラトリアムを満喫した。

もちろん、彼らだけではなく、どの世代にとっても、「こんなはずではなかった」という状態が訪れたのだが、下のゆとり世代であれば、バブル期などの記憶もないため、「こんなはずじゃなかった」の「こんなはず」への期待は、ロスジェネよりも薄いだろう。だからこそ、彼らのことを「さとり世代」とも言うのは納得であるし、ロスジェネからすると「さとれる」ことがうらやましいくらいである。

エンタメの世界で描かれる「冴えない」ロスジェネ男性

こうした「ロスジェネ」は、エンターテイメントの世界でも、題材となることは多い。もちろん、それがど真ん中の主題ということではないが、30代後半になっても、かつての父母たちのように結婚してマイホームを持つということができず(それ自体が悪いということではないが)、20代のときと同じような気持ちのままで生活し、社会的な地位もさほど変わっていないし、モラトリアムを卒業したいのにできないでいるという主人公が出てくるものは、実はよく見るとロスジェネのことを暗に描いてあることは多い。

現在、放送中のドラマ『高嶺の花』(日本テレビ系)の峯田和伸も、「美貌、キャリア、財力、家柄……なぁんにも持たない平凡な自転車店主、風間直人(39)」(公式ページより)を演じているが、このキャラクターもロスジェネ的と言えばロスジェネ的だろう(もっとも、風間は家業を継いでいるから、厳密にいうと、ロスジェネの危機を直撃しているわけではないが)。

しかし、もっともロスジェネのリアリティを演じている俳優と言えば、大泉洋ではないだろうか。彼の出演作で、ロスジェネの心境を描いていると感じた作品と言えば『アイアムアヒーロー』が真っ先に思い浮かぶ。ここでは、冴えない35歳の漫画家で、一度はデビューしたものの連載は打ち切られ、再デビューを目指してアシスタントをしている鈴木英雄という役を演じた。

劇団ひとりが原作、脚本、監督を務めた『青天の霹靂』でも、大泉は、35歳で学歴もなければ、金もない、恋人もいない、売れないマジシャンを演じた。そして今年の『恋は雨上がりのように』でも、かつては小説家を目指していたが、今はファミレスの店長で、バツイチ、二階建てアパートに一人で住んでいる冴えない45歳を演じていた。

ここまで書いておわかりかと思うが、ロスジェネの男性を描くとき、「冴えない」ということは必須条件なのである。

なぜそうなってしまうかというと、ロスジェネをテーマにするとき、「こんなはずではなかった」人生を送っているということが重要であり、それを端的に表すのが「冴えない」ことに集約されるのではないかと思われる。

しかし、大泉が演じた3つの作品の「冴えない」ロスジェネの男たちは、それぞれに、「冴えない」と向き合うのだ。『アイアムアヒーロー』の英雄は、冴えない自分が、ウィルスに感染して狂暴化したZQNと戦ううちに、自身のアイデンティティを確立する。原作よりも拗ねたところの少ないキャラクターになっていて、ラストシーンはすがすがしい思いすらした。そこは、『逃げるは恥だが役に立つ』や、『アンナチュラル』の野木亜紀子の脚本によるところも大きいだろう。

一方、『青天の霹靂』のマジシャンは、ものすごく拗ねたキャラクターで、「こんなはずではなかった」という思いと、こんな自分になってしまったことの責任を父母にあると思い込んで暮らしている。前半だけを見ると、ここまで陰鬱で拗ねた大泉を初めて見た気がした。もちろん、それはさまざまな経験を通して最後には払しょくされるのだが。

『恋は雨上がりのように』のファミレスの店長は、諦めてはいるが拗ねてはいない。一流大学を出て(いると思われる)、共に文学を志したサークルの仲間は売れっ子作家になっていて、疎遠にはなっていたが、のちに友情も、そして小説を(プロになるとかならないとかは関係なく)志していた気持ちも取り戻す。

この三本を見ていると、ロスジェネは、「こんなはずではなかった」という思いを誰しもが抱きながらも(もちろん抱かない環境の人もいるだろうが)、それを自分とどう折り合いをつけ、拗ねずに生きるかのヒントが描かれていると思った。そして、この三本の脚本家、野木亜紀子、劇団ひとり、『女子的生活』の坂口理子の三人もまた、ロスジェネ世代なのである。

こうした、ロスジェネのリアリティを演じるには、「冴えない」ということに、どうリアリティを持たせるかがカギとなる。だからこそ、今、ロスジェネ世代の俳優として、大泉や、峯田が引きも切らないのだろう。

しかし、ロスジェネが自分の自意識と向き合い、拗ねずに生きるにはどうすればいいかを描いていられるのは、2018年までの話である。ロスジェネは、自分の自意識や、アイデンティティとどう向き合うかを考えていられるだけ、もしかしたらまだましだったのかもしれない。

今のドキュメンタリーや報道を見るにつけ、またロスジェネがこれから50代、60代を迎えるにあたって、正社員でなかったことで、年金などに頼れないなど、「食う」ことに向き合わないといけないという時代が来るかもしれない。そのときは、どんな作品が世に現れ、どんな俳優がそれを演じるのだろうか。

※写真は本文と関係ありません

著者プロフィール: 西森路代

ライター。地方のOLを経て上京。派遣社員、編集プロダクション勤務を経てフリーに。香港、台湾、韓国、日本などアジアのエンターテイメントと、女性の生き方について執筆中。テレビブロスで、テレビドラマの演者についてのコラム「演じるヒト演じないトキ」連載中。著書に『K-POPがアジアを制覇する』(原書房)、共著に『女子会2.0』(NHK出版)などがある。