みなさんは引っ越す時期を決める時、この時期は避けたいな~と考えたことはありますか? 実は、「1月・5月・8月・9月」の時期は引っ越しをしてはいけない、という噂があるそうです。とはいえ、これらの時期というのは、いわゆる引っ越しの「繁忙期」と言われている時期ではないので、一番混む時期と比べてお値段やスケジュールの確保しやすさでメリットがあることも。せっかくだったらこの時期に引っ越したい! でも、なんか噂や習わしがあると少し気になってしまいますよね。そこで今回、その噂が本当なのかを調査するため、日本人の風習について詳しい、駒沢女子大学教授であり現役の住職でもある千葉 公慈さんにお話を伺いました。

――世の中では「1月・5月・9月」は仏教の正五九祭の影響から「引っ越してはいけない」という噂があるそうです。まず正五九祭というのはどういったものでしょうか?

正五九祭というのは正月・5月・9月のことで、正月はお正月、5月は田植え、9月は収穫祭のことを指していて、大祭と言っていわゆるお祝いの時期になります。

――昔はその期間中に引っ越しをしてはいけないということだったのでしょうか?

昔は日本人の多くが農耕民族でしたから生活の中心が農業でした。今では引っ越しというのは業者さんに頼めば1人でもできる時代ですけれども、昔は茅葺き屋根ひとつとっても自分ではできないわけで、大勢の村人が一緒に茅を運んで家を作り、引っ越しもみんなでの協力で行われました。とりわけ種まきや収穫祭のような大事な時期に引っ越すことは周りに迷惑がかかるという意味で良くないとされていたんですね。

それからお正月の場合ですと、冬の時期というのは農業において、『大地の中で自然の精霊たちが増殖する時期なので労働することはタブー』と信じられていました。いわゆる冬の語源の「殖(ふ)ゆ」という考えに基づくマナーです。ですから命が芽生えようとしている、あるいは働いてはいけない季節の変わり目に引っ越しをするのはよくないと考えられていたんですね。

また、昔の人は農産物などの天の恵みに対して、あの世からくる命をいただくという感覚があったんです。ですから種を撒くとか命を収穫するというのは、命があの世とこの世を行ったり来たりする時間の分け目なんですね。同じく、正月というのも古い年と新しい年の境目ですよね。昔はそういった日時の境界や季節の境目っていうのは命を持っていかれると考えられていたので、真夜中の外出さえ遠慮したんです。ですから農繁期に引っ越しを行うと『あの世に引っ張られる』と考えられていた可能性もあると思います。

――農耕民族であったゆえの考え方ということですね。ところで、8月もお盆の時期だから引っ越してはいけないという噂があるようですが、これはいかがでしょうか?

やっぱり農耕民族というのは定住型を美徳とする文化を持ちますので、村を移るっていうことはとてつもなく大きい出来事というか、要するに故郷を離れることは、連帯意識の強かった昔の集落ではあまり好まれなかったと思われますね。

仏教的なしきたりから言うとご先祖の眠るお墓、つまり過去の家計の命派と離れて暮らすことは、過去と今の命の繋がりを断ち切るような思いに似た感性があった、というような見方をするとわかるような気がしますね。でも、日本人の多くが農耕民族ではない現代においては、必要以上に気にすることはないと思います。

――なるほど。必要以上に気にしなくてもよい時代になったのに、どうして今もそういった風習というか、概念が残っているのでしょうか。

日本人は、どちらかと言うと協調主義を大切にして和を乱さないことが美徳とされる傾向があり、そういう意味で言うと組織全体を忖度しながら生きてきたわけですね。ですからとりわけそういうしきたりや風習、みんなと何かをするっていうことに自分の安らぎというか安心感というか身の置き場の確認をすることを絶えず怠らずしてきた民族なんですね。そういう民族性ですから、当然私1人がどうしようという価値観よりも、みんなとどうやってうまくやっていくかというのを気にするんじゃないでしょうか。

――確かにそういう部分はあるかもしれませんね。ちなみに千葉さん自身はこれまで引っ越し時期を気にされたことってありますか。

まったくありません。仏教では『日々是好日』という言葉があります。一日一日が素晴らしい日という意味なんですが、その意味を考えると、生きている一瞬一瞬が尊いので、この日は大事だけどこの日は忌まわしいとか、避けて通るというような『日を選ぶ』っていうことは仏教の教えとしては言っていないんですね。また、古い仏教経典の中にも、良いことっていうのは時を選んじゃいけないという、私たちがよく言う『善は急げ』という言葉と同じようなことが書かれているんです。

気にしなくてもいいことを気にしたり、避けなくてもいいようなことを避けたりすると逆に苦労するぞと、と経典はむしろ警告しています。人間にとって善悪というのは日を選ぶとか方角を避けるとかではないので、風習の意味を考えることは大事ですが、いわれのないことに縛られて大事なことを逃すことの方がよろしくない、いいことをするのに何をためらっているのか、というスタンスで全てを測ります。したがって引っ越しを含めて「これは大事」と思うことは日を選ぶ必要はない、というのが私の考えです。

――では結論としては、あまり気にする必要はないということでしょうか?

はい、まず縁起が悪いとかっていうことはありません。この言い伝え自体は、生活圏のコミュニケーションや人間関係の和を乱すことを慎んできた日本人の気遣いのしるしでもあるので、しきたりや風習として今も残っている地域があるかもしれません。でも今は、生活や仕事が変わってきていますので、生活のリズムや現代的な人間関係にかなったものであるならば、私は昔のように時期を気にしなくていいと思います。

――ありがとうございました。

「周りに迷惑がかからないように」という周囲への気遣いは、たとえ時代が変わっても大事にしていきたい考え方ですよね。とはいえ、今回の話に関しては、仕事や生活、引っ越しの形も変化した現代において気にする必要はなさそう。引っ越したいけど噂が気になるなぁ……と思っていた方は、これを機にぜひこの時期の引っ越しを検討してみてはいかがですか?

《取材協力》
千葉 公慈さん

1964 年、千葉県市原市生まれ。現在、駒沢女子大学人文学部 教授。 千葉県いちはら観光大使。千葉南税務署広報大使。 曹洞宗宝林寺(第 24 世)住職。専門分野はインド仏教。日本文化論。 著書は『知れば恐ろしい日本人の風習』、『仏教から生まれた意外な日本語』、『心と体が最強になる禅の食』以上 河出書房新社、『お寺と仏教』河出夢文庫、『心に花を咲かせる言葉』双葉社、『運がよくなる仏教の教え』集英社(萩本欽一と共著)、 『祖師に学ぶ禁煙の教え』仏教タイムス社(とげぬき地蔵尊住職と共著)最新刊 『うつが逃げだす禅の知恵』河出書房新社がある。 現在、ラジオ日経「千葉公慈の公慈苑」(日曜 20 時 30 分より)をレギュラー放送中。 曹洞宗『てらスクール』にて「禅を学ぶ」月刊連載中。

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