今、神奈川県南西部の城下町、小田原市の観光が好調だ。これは、2015年7月~2016年4月にかけて行われた耐震補強工事が完了し、リニューアルした小田原城天守閣の影響が大きい。市の統計によれば、天守閣の入場者数は、リニューアル前の2014年5月から2015年4月の入場者数が50万6,516人だったのに対し、2016年5月から2017年4月にかけては、169.4%増の85万8,089人を記録している。
しかし、小田原城の見所は天守閣のみにとどまらない。今回は、小田原城に詳しい「小田原城郭研究会」の山本篤志さんにナビゲートしてもらい、小田原城にまつわる謎解きも楽しみながら、市内各所に残る小田原城の遺構を見てまわることにしよう。
「時の鐘」の石垣の正体は?
何はともあれ、まずはリニューアルした天守閣を見学しに行こう。せっかくなら、昔の侍たちが、登城する時に歩いた「登城ルート」を歩いてみたいが、城址公園に入る前に、山本さんが「1カ所立ち寄りたい場所がある」と言う。
向かったのは、横浜地裁小田原支部の建物と小田原市民会館の間の狭い通り沿いにある「時の鐘」の鐘楼だ。ここは、城の正面入口である「大手門」の跡だという。注目してほしいのは鐘楼が乗っている石垣で、この石垣こそが、その昔、大手門を支えていた土台で、関東大震災で一度、崩れたのを積み直したのだという。昔は道の両側にあったはずだが、現在は城に向かって道の右側のみが残っている。
さて、大手門から先は、かつては城の三の丸だった場所になる。この付近一帯には、江戸時代は小田原藩の家老級の屋敷が立ち並んでいたというから、当時の様子を思い浮かべながら、お堀端へ進もう。馬出門土橋(通称、めがね橋)を渡って馬出門をくぐり、馬屋曲輪(くるわ)に入ると、前方の高台に建つ天守閣が目に入る。
ここから、住吉橋を渡り、「銅門(あかがねもん)」をくぐって二の丸に進むのが正式な登城ルートだが、残念ながら2018年3月まで、住吉橋の架け替え工事が行われており、迂回して進まなければならない。二の丸から本丸を囲む「本丸東堀跡」を渡り、「常盤木門(ときわぎもん)」をくぐれば、天守閣や本丸のある高台に到着する。以上が、小田原城の正規登城ルートだ。
天守閣は誰のもの?
ここで、「小田原城の天守閣は誰のものか? 」という話をしたい。普通に考えれば、江戸時代であれば「小田原藩のもの」ということになるだろうが、話は簡単ではない。
『よみがえる小田原城 史跡整備30年の歩み』という、以前、行われた「小田原城天守閣特別展」の冊子によれば、"寛永10年(1633)1月、大地震が発生し、小田原城は大破"した。城主の稲葉正勝は、"震災復興とともに近世城郭としての体裁を整えるための大改修を開始"し、"小田原城の改修は、単なる復旧作業というよりは翌年に予定される将軍家光の上洛に備え、将軍家宿泊所としての設備拡充としての意味合いが強いもの"だったという。
この大改修の時に、天守閣や本丸が造られたのだが、山本さんによれば、「天守閣や本丸は、将軍家の宿泊所として造られたので、小田原藩が使うことはなかった」という。
つまり、天守閣と本丸は、小田原城の中にありながら、小田原藩のものではなく、「将軍家のもの」だったということになる。では、小田原藩主はどこで暮らしていたのかという疑問が生じるが、答えは、二の丸なのだそうだ。
さて、天守閣の中を見学させていただこう。天守閣内部では、戦国時代の小田原北条氏による支配、江戸時代の大久保氏、稲葉氏の小田原藩による統治など、小田原城の歴史を時代毎にパネルを使って説明している。
山本さんによれば、今回の天守閣のリニューアルは耐震工事がメインであり、現代の耐震基準にあわせるため耐震壁を設けるなどした結果、リニューアル前よりも展示スペースが狭くなった。そのため、パネル展示を充実させ、学習的な要素を前面に押し出した。天守閣内部を一周すれば、小田原城のことが一通り分かるようになっているという。
その他、現在の天守閣は、昭和35(1960)年に完成した"復興天守閣"だが、この"復興天守閣"を造るにあたって基礎資料とした江戸時代の小田原城の模型や、甲冑や刀剣などの武具の展示等も行われている。
●information
小田原城址公園
所在地: 神奈川県小田原市城内
アクセス: 小田原駅から徒歩約10分
開館時間: 9:00~17:00。6~8月の土・日・祝日、および8月14日~18日は19:00まで(入館は閉館の30分前まで)
ところで、天守閣を中心とする小田原城址公園を訪れた人の中には、「小田原城は、思ったよりも小さな城だな」という感想を持つ人がいるかもしれない。しかし、戦国時代において、小田原城は全国でも最大規模の城郭だったという。次は、この謎について記そう。