90年代に入っても、日米貿易摩擦は続いた(80年代までは前編へ)。日本の経済力は米国にとって引き続き脅威と映っていたのだろう。象徴的な出来事が95年春に起こった。94年後半に100円前後で推移していたドル円が95年に入って急落、4月19日には一時80円割れを示現した。当時としては「超円高」だった。

当時、ある新聞記者が「GDPで日本が米国を追い抜きそうだ」と興奮して連絡してきたことがあった。94年の日本の名目GDPは471兆円、米国のそれは7.085兆ドルだった(現行統計)。単純に割り算すれば、1ドル=66円以上の円高になっていれば、ドルベースのGDPで日本が米国を抜くところだった。当の記者は計算方法を間違えて、あと少しで日本が世界一になると勘違いしていたのだが、それだけ日本側にも驕(おご)りがあったということだろう(*)。

(*)なお、2016年7-9月期までの1年間の日本の名目GDPは535兆円、米国のそれは18.407兆ドルだ。計算上、日本が米国を追い抜くためには、1ドル=29円以上の円高になる必要がある。「失われた20年」の間に、彼我にそれだけの差がついた。

89年に始まった日米構造協議は90年にほぼ決着した。そして、93年(自民党宮沢/民主党クリントン、当時の日米政権、以下同じ)には、それを発展させた形で日米包括経済協議がスタートし、新たに知的所有権、政府調達、自動車、保険、金融サービスなどの分野が協議された。

日米包括経済協議は96年末までに全ての分野で決着した。この頃から日米貿易摩擦は急速に下火になっていった。95年に就任したルービン財務長官は、「強いドルは国益」との発言を繰り返し、それまでの米政権による円高圧力から180度転換してみせた。

GATTのウルグアイ・ラウンドが妥結して95年にWTO(世界貿易機関)が設立され、国際的な通商ルールを協議する正式な場ができたことも影響したかもしれない。

ただ、日米貿易摩擦が弱まった最大の原因は、日本経済が凋落し、その一方で米国経済が活力を取り戻したことではないか。バブル崩壊の後遺症に苦しむ日本経済は、97年の山一証券破たん、98年の金融危機などを経験した。

そして、米国経済はIT革命によって劇的な回復を遂げたのだった。もはや、日本は米国の脅威とはみなされず、「ジャパン・バッシング(日本叩き)」に代わって、「ジャパン・パッシング(日本素通り)」や「ジャパン・ナッシング(日本は何でもない)」といった言葉も聞かれた時代だ。

その後、2001年(自民党小泉/共和党ブッシュ)に「成長のための日米経済パートナーシップ」、2012年(民主党野田/民主党オバマ)に「日米共同声明:未来に向けた共通のビジョン」などが発表されたが、それらはいずれも両国の協調を探るものであった。

そして、今現在。

トランプ大統領が就任して、日米貿易摩擦が再燃しそうな雲行きだ。2016年1-11月の米国の貿易赤字全体に占める対日分は10%未満。この数字が5割前後ないしそれを大きく超えていた80年代後半から90年代前半と比べれば、隔世の感がある。

代わって、米国の貿易赤字の5割近いシェアを占めるのが中国だ。したがって、かつてのような貿易摩擦が発生するとすれば、それは日米間より米中間になる可能性がはるかに高い。

それでも、貿易が不公平だと感じているトランプ大統領が、折に触れて日本に圧力をかけてくることは想像に難くない。

日米貿易摩擦の再燃が避けられるとすれば、それはトランプ大統領が「強い米国を取り戻した」と実感した時か、あるいは米国で政権交代があった場合に限られるのかもしれない。

執筆者プロフィール : 西田 明弘(にしだ あきひろ)

マネースクウェア・ジャパン 市場調査部 チーフエコノミスト。1984年、日興リサーチセンターに入社。米ブルッキングス研究所客員研究員などを経て、三菱UFJモルガン・スタンレー証券入社。チーフエコノミスト、シニア債券ストラテジストとして高い評価を得る。2012年9月、マネースクウェア・ジャパン(M2J)入社。市場調査部チーフアナリストに就任。現在、M2JのWEBサイトで「市場調査部レポート」、「市場調査部エクスプレス」、「今月の特集」など多数のレポートを配信する他、TV・雑誌など様々なメディアに出演し、活躍中。

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