開湯1,300年の歴史ある湯が沸き出でる山形県鶴岡市の奥座敷「湯田川温泉」。傷を負った白鷺がここで傷を癒やしたという逸話より、"白鷺の湯"とも呼ばれている。この地でひっそりと湯を楽しんだのは白鷺ばかりではなく、あの文人も帰郷の定宿をここにもっていたという。
藤沢周平を追って
その文人の名は藤沢周平。『たそがれ清兵衛』『隠し剣 鬼の爪』『武士の一分』(原作は『盲目剣谺(こだま)返し』)の作者といった方が、耳になじみがある人も多いかもしれない。現在の鶴岡市に生まれ、昭和51(1976)年に『春秋山伏記』取材のために鶴岡を訪れた際、湯田川温泉「九兵衛旅館」に宿泊。以後、帰郷の時の定宿にしたという。
湯田川温泉へは、JR羽越本線「鶴岡駅」よりバス約25分、または、タクシー約15分となる。9つの宿と2つの共同湯と足湯(3月下旬~11月下旬限定)があるこぢんまりとした温泉街だが、毎分約1,000Lの湧出量を誇る硫酸塩泉(旧泉質名: 含石膏芒硝泉)で、環境省より国民保養温泉地にも指定されている。
そして、藤沢周平が定宿として愛した九兵衛旅館は、大通りから1本入ったところにある。創業300年の旅館の主は現在11代目。吊るし雛で出迎えられ、何だか田舎のおばあちゃん家に帰ってきたような安らぎを感じる。また、全館無線LAN対応なのもありがたい。
九兵衛旅館の玄関はひとつだが、メゾネットタイプでプライベート温泉付きの「月の館」、8~12畳和室の「時の館」、10畳和室の「花の館」という3つのタイプの全13客室がある。受付を済ませて部屋に案内してもらうと、木の温もりを感じるくねくねとした廊下が続いていた。ちょっとした忍者屋敷気分も楽しめる。
ちなみに、藤沢周平が泊まっていた部屋も他の部屋同様、宿泊は可能だ。時の館にある8畳和室「桂の間」がそれで、部屋には藤沢周平の掛け軸もある。この椅子に座ってどんなことを考えていたのだろうと、気分は勝手に現代の藤沢周平だ。
東北の雪が温泉三昧を楽しくする
九兵衛旅館には3つの温泉がある。ウサギの置物が出迎える露天風呂付きの「山の湯」、大きな水槽に大きな金魚がゆったり泳ぐ「川の湯」、そして貸切風呂だ。筆者が訪れた時は、20時をめどに山の湯と川の湯が男女入れ替わった。両方入りたい人は、事前に時間を確認しておくといいだろう。
また、九兵衛旅館から歩いて1分のところに姉妹館「珠玉や」があるが、九兵衛旅館宿泊者は珠玉やにある温泉にもつかれる。珠玉やには3つの貸し切り風呂「あさつゆ」「ゆうぎり」「まんてん」があり、特に展望風呂のまんてんは朝一の湯にオススメだ。なお、九兵衛旅館と珠玉やの全ての浴槽では湯口から源泉を放流しているが、九兵衛旅館の山の湯では湯温調整のため浴槽内循環している。
そこに加えて、湯田川温泉には2つの共同浴場がある。「田の湯」と「正面の湯」で、特にこの正面の湯は、加水・加温・循環を全くしていない全国でも珍しい「天然かけ流し」が自慢。入浴料は税込200円だが、温泉の宿泊客は泊まりの旅館で鍵を借りれば無料で楽しめる。ともにシンプルな浴場ではあるものの、通いなれた人たちがさっと入ってさっと帰るような、地元の人たちの日常を感じさせてくれる空間だった。
冬は寒鱈尽くしでおなかいっぱいに
九兵衛旅館では日帰り昼食プラン(ひとり3,500円/消費税、入湯税は別途必要)、日帰り入浴(税込800円/日帰り昼食プランの予約がある日に限り実施)もあるが、せっかく鶴岡の奥屋敷まで来たのであれば、ゆっくりしていくといいだろう。
夜には四季折々の庄内グルメが待ち受けており、2017年には1月11日~2月20日限定の特別プラン「寒鱈の膳」も用意(通常料金+税別2,000円)。鱈珍味三点に始まり、寒鱈のどんがら汁、鱈白子と鱈昆布じめの握り寿司、鱈みぞれあんかけ、鱈白子ほうば焼き、鱈の子めしなど、鱈を余すことなくたっぷり味わえる。朝は朝で、庄内の野菜や魚、そして山形産はえぬき白米の上には鱈の子を。
ひっそりとした温泉街で、歴史ある湯にひたり、地元のものをじっくり味わう。あの藤沢周平も、この景色を眺めながら時代小説の世界を構想したのだろうか……などと、ちょっとたそがれながらの旅も感慨深い。
取材協力: きらきら羽越観光圏