孤高の天才と呼ばれたプロレスラー・武藤敬司。彼が盟友の蝶野正洋と共著で出版した『生涯現役という生き方』(KADOKAWA刊)の中で、弱点を強みに変える発想法について書いている。その部分の話を詳しく聞いてみた。

武藤敬司
撮影:菊池茂夫

女房よりも付き合いが長い「俺の弱点」とは?

誰にだって弱点はあるだろう。俺にだってある。それはヒザだ。「なんだ、体の弱点か」とか、思わないでくれよ。今までの人生で、右ヒザを3回、左ヒザを1回、計4回、手術している。

最初の痛みを感じたのが24歳の時。結婚したのが29歳の時だから、女房より、このヒザの痛みの方が、付き合いが長いことになるな。病名で言えば、慢性的な変形性膝関節症。要はヒザの関節が曲がったままなんだよ。俺はヒザをもう伸ばすことができないんだ。実生活に置き換えたら、やっぱり厳しいよな。季節や天候が違うだけで、痛みがぶり返したりするしね。まあ、もうそういう生活も慣れたけれど。

「えっ? そんなヒザで、武藤はあの、ムーンサルトをやってたのか」と、昔からの俺のファンは思うかも知れない。ムーンサルトは、俺の代名詞となる技。だけど、実はヒザを痛めた原因も、この技なんだよ。空中から回転して相手に覆い被さる時、両ヒザは自然とマットに叩きつけられ、それが重なってどんどんヒザは悪化した。あらゆる治療法を試したし、いわゆる超能力者にも診てもらったくらいだ。でも、完治はしなかった……。オマケに俺、頸椎も痛めてるからね。クラッシャー・バンバン・ビガロっていう大型選手をスープレックスで投げた時に、最初に首がグキッとなって……。そんなこと繰り返してたら、全盛期の頃は188センチあった身長が、今は184cmだよ。4cmも縮んでるんだよな。

弱点を受け入れ、その状況でできることを考える

ケガの話ばかりだから、暗くなるよな。だけど、そこで自分自身が暗くなっちゃダメなんだ。泣きごとばかり並べていてもしょうがない。レスラー生活も人生も、これからまだまだ続くんだから。だから俺は、まずその弱点をしっかりと受け入れることにした。そして考えた。「このピンチを、強みに変えられないか」って。これをきっかけに、新しい武藤敬司のイメージを作り上げられないかって。いわば、見ているすべての人たちに武藤敬司のバージョンアップと捉えさせることはできないかと考えたんだ。

ヒザが悪いことは、素早く動き回れない。首のせいもあって、もうスープレックスもできない。だから、その状況でできる技を考えた。「シャイニング・ウィザード」とかね。1995年に高田延彦さんを沈めた「ドラゴンスクリューからの足四の字固め」なんて、まさに俺の選手としての寿命を延ばしてくれたよ。四の字固めは昔からある技。だけど、それにドラゴンスクリューをつけたことで、独自性が出た。同じ技でもそこまでの入り方が違えば、ファンがオリジナルとして見てくれること、俺は経験でわかっていたからね。この「型」は、俺に新たな印象を与えてくれたと思ってる。

そして、間合いも大きく取るようにした。早く動けないからこそ、普段はものすごい緩い動きを心掛けた。そして、「ここぞ!」という時だけ、ぱっぱっと動く。つまり、緩急をつけたんだ。さらに合間にはパフォーマンスを取りいれたりもした。これは、お客の目線を技の完成度に集中させない効果もある。「ラブ・ポーズ」とかね。これだってお笑い芸人とかがやってくれてるだろう?

流れに逆らわず、緩急とキャリアを武器にすればいい

2009年に、NOAHの三沢光晴さんが亡くなったことがあった。リング上の事故でね。事故ではあったけれど、それまでの三沢さんの体の代償はハンパじゃなかったはずだと思うんだよ。小橋選手もそうなんだけど、彼らは、1990年代の四天王プロレスを、延々とその後も続けようとしていたからね。俺の場合は、ヒザのこともあって、試合の見せ方を変えた。いわば、自分なりに楽をしたんだ。年齢を重ねれば若い時みたいに、最高のコンディションで望めるわけないんだから。でも、それらの老いとかケガによる弱点を強みとして変えることはできたと思ってる。

みんなに言いたいのは、もし弱点があったとしても、それをより良く理解すれば、さらに進化した今の自分として見せていく方法って、絶対にあるってこと。それは、会社の仕事でも可能だと思う。たとえば、こっちがちょっと余裕を持って言動に緩急をつけて、でも決める時は決めるみたいな感じかな。あとは、キャリアを得たことで一回り大きくなった自分を演出してみせるとか。それに、自分の不調を他人に知らせない演技力って、人生のあらゆる場面で必要とされるものだしね。

「お金はガンと稼ぐよりボチボチ稼いだ方がいい」

そして、これらの技術は、長く働くことにもつながるね。俺はよくこうやって言うんだ。「お金はガンと稼ぐよりボチボチ稼いだ方がいい」って。俺、プロレスを30年やってきて、一番稼いだのは、ファイトマネーやグッズの売り上げ含めて、年収で6,000万円くらい。2001年だったと思う。だけど、一気に稼ぐと税金で持ってかれちゃうんだよね(笑)。

忘れもしない1990年代前半、結婚して、川崎に家を買ったんだ。当時の価格で8,000万、頭金は4,000万だった。ところがその前年度、俺はアメリカでの試合も多くてさ。そうすると、日本では通年では、それほど儲けてないことになるよな。なのに、武藤は新築の家を買ってると見られて、こいつはおかしいということで税務署にマークされて、しこたま税金を持っていかれたよ。しかも2001年に引っ越したんだけど、その時の家の売値は3,000万に下がってたからね。不動産の価値なんて、プロレスの腕のように長持ちするものじゃないって、妙なところで気づかされたよな。

細く長くしたたかに生きる

今プロレス界は全体的には冬の時代。でも、一度「プロレスの腕」という技術を手に入れると、それを活かして、ほかのプロスポーツより長く活動できることは確かだと思う。プロレスラーのメリットって、そこだと思うね。そして、さっきもさんざん言ったように、怪我したり、弱点が直らなかったら終わりの人生でもないんだよ。もし、そうなっても、それを強みに変えたり、もっと言えば、騙しながら生きていけばいい。細く長くしたたかに生きる。その信条は、案外サラリーマンの生き方に共通するかも知れないね。

『生涯現役という生き方』(発売中 1,512円 KADOKAWA刊)

ただ、こんな俺も、会社を辞めたことがある。2001年に生まれ育った新日本プロレスを退団したし、その後、社長を務めた全日本プロレスも脱退した。今は、レッスル・ワンという新しい団体を率いている。転機は、やはり新日本を辞めた時だね。新日本は俺が辞めてから、プロレスのリングで総合格闘技の試合を始めた。「ああ、やっぱりそっちに行きたいのか」って思ったよ。俺のやりたいことではなかったし、あれ以上長居をしてたら、俺はきっと会社の不良在庫になっていた。しかもビッグマッチではキツイ試合を当てられてたろうし。

俺が今でも現役でいられるのは、新日本を辞めて、そこそこ自分のペースで試合ができたおかげでもあるわけ。新日本の過酷な日程でリングに上がってたら、とっくに干からびていたはずだよ。それもやっぱり、長くやれた理由だよな。色々言ってきたけれど、根底にあるのは、自分が楽しめるかどうかという判断。それが大事だから。

特に近年は、インターネットとか、情報が溢れてる時代だけに、読者のみんなには、もっと純粋に、自分がワクワクすることを大切にして欲しいね。それが俺からのメッセージ。誰かが正解と決めた価値観に従うよりも、状況の変化に対応しながら自分自身の正解を見つけていく方が、よっぽどいい生き方ができるはずだからさ。

著者紹介 武藤 敬司(むとう けいじ)

1962年生まれ。山梨県富士吉田市出身。山梨県立富士河口湖高等学校卒業。高校卒業後は、東北柔道専門学校(現・学校法人東北柔専仙台接骨医療専門学校)に進学。柔道整復師の資格を取得するとともに、柔道で全日本ジュニア体重別選手権大会95kg以下級3位となる。21歳で新日本プロレス入門、1995年、第17代IWGPヘビー級王者となる。2002年、全日本プロレス入団、同年10月には社長に就任。2013年同団体を退団し、WRESTLE‐1を運営するGENスポーツエンターテインメント代表取締役社長となる。