数々のCMディレクションやミュージックビデオ、映画を手がける映像作家、柿本ケンサクさんがApple Store 銀座の「Creator Talk」に登場。ゲストにタカ・イシイギャラリーの菊竹寛さんを迎え、アート、iPhoneを巡るトークを繰り広げた。
トークは広告の写真とアートの写真は何が違って、それぞれ、どういった役割があるのかという問題提起からスタート。菊竹さんは、広告写真は時代の中で生まれてくるもので、クライアントや伝えるべき人が存在するということが重要で、それが制作の根本にある、対して、アートの写真はさまざまなタイプの写真家がいるので、一概には言えないが、そういった要請に基づいて制作されることはあまりなく、アーティストが身につけたきた技術や歴史的な背景を踏まえた上で、もっと自由に創れるもので、それがどのように社会に受け取られるのも、また自由なものであると自説を開陳。柿本さんは、最新の技術があって、自分もテクニックがあり、広告の世界で成功したとしても、アートの写真を撮れるかというと、それはなかなか勇気の要ることだと言い、20代前半、ある商業出版社に作品を持ち込んだところ、広告写真としては、ダメ、アート方面なら受け入れられるかもと断られたので、アート方面の版元で作品を見てもらったら、広告写真なら良いんじゃないとアドバイスされたというエピソードを披瀝し、哄笑を誘った。
現代における写真表現とは何か? 美的価値とは何か? といったアート談義のち、話題はiPhone 6s/6s Plusで搭載された新しい撮影機能「Live Photos」へ。Live Photosで撮った作品を「アート」と称しているケースは未だないと思うが、新たな表現形態に成りうると二人は指摘する。柿本さんはLive Photosで撮った自身の作品をいくつか紹介していく中、ちょっと絵が動くだけで、その時の風合いとか匂いとか温度などを捉えられると、ならではの特性を評価した。広告の世界もアートの世界も、こういった新しい手法をどんどん取り入れていって、歴史に新たなページを刻んでいくようになったら面白くなるのではと、所見を述べた。
Live Photosは、写真でも動画でもなく、そのどちらでもあるという不思議な体験を齎してくれる。Live Photosに初めて触れたとき、音も録れるので、貴重な瞬間を記憶として留めておきたいという発想のもとで作られた記憶補助ツールという側面を持っていると筆者は感じたが、最近では、とても短い物語を書き上げるための帳面と思えるようになってきている。iMessageでLive Photosが送られてくると、送ってきた人(達)が、今、綴っている物語を想像せずにはいられなくなったのだ。そして、柿本さんがセレクトしてくれたLive Photosの中にも明らかに「物語」が存在していた。
柿本さんは目に見えないものを大切にしたいという想いがあるという。渋谷区猿楽町のヒルサイドフォーラムで開催された初の個展、「TRANSLATOR」は、自分自身を「目に見えないものの通訳者」であると位置づけて命名したとのことである。Live Photosがお気に入りなのも、本当だったら、そこには見えなかったものを顕在化してくれるからなのかもしれない。
Live Photosに収められている、瞬間、瞬間は、撮影者が本来意図しないものが写っている可能性が高い。もし、映像を撮ろうとしているなら、録画ボタンを押した時と、録画停止ボタンを押すまでが、撮影者の撮りたい場面なのだ。ところが、Live Photosでは、シャッターボタンを押す数秒前から記録が始まり、押して、1.5秒が経過すると、勝手に記録が終わる。そこに残っているものは、撮影者の意図とは外れたものであるのだ。多分に残されたものはゴミのようなものでしかないが、それでもごくまれに、奇跡の瞬間を捕まえていることがある。その奇跡が潜んでいるところにLive Photosの面白さがあるのではないだろうか。