森博嗣『作家の収支』(幻冬舎/2015年11月/760円+税)

「小説家」という職業ほど、神秘化されている職業はないと思う。「小説を書いて生活しています」と聞くと、その人がどんな作品を書いているのかよく知らなくても「タダモノではない」という雰囲気が漂うし、どうやったら小説家になれるのか、という問いにもあまりはっきりした答えはない。そもそも、「職業は小説家です」と言っている人に出会うこと自体が稀だ。普通の会社員に比べると、小説家という職業はかなり謎に包まれていると言える。

その中でも多くの人が謎に思っているだろうことに、「そもそも、小説家ってどのぐらい儲かるんだろうか?」というものがある。「出版不況だ」「もう小説家は昔のようには食っていける職業ではない」というネガティブな話はたびたびネットや本で目にするが、こういった「作家の収入」についての話が具体的な数字と一緒に語られていることをあまり見たことがない。まあ、普通はそうだと思う。作家が「私のこの本はいままで約◯部ぐらい売れていて、その印税は◯円で、著作権使用料が◯円で……」と事細かに開陳しても、特に作家側が得することはないし、ヘンに周囲から妬まれたりしても困る。常識的に考えたらやらないだろう。

本書『作家の収支』(森博嗣/幻冬舎/2015年11月/760円+税)は、そんな常識を覆す一冊である。なんと、この本では著者の小説が過去に何部ぐらい売れて、それによる印税がいくらで、ドラマ化した際の著作権使用料はいくらで……といった具体的な話が数字込みで語られているのだ。とんでもない本が出てしまったと思う。本書の登場で、小説家の神秘性は低下したと言えるかもしれないい。

印税の仕組みを知っていますか

そもそも、世の中の多くの人は「印税」の仕組みすら理解していない。普通に会社員をしている分には関わることのない世界なのだから、それも当然だろう。もっとも、「印税」という言葉自体は聞いたことがある人が少なくないはずだ。「税」という言葉が入っているので、税金の一種だと勘違いしている人すらいるようである。

実際には、印税は税金ではなく単に出版社が著者に支払うロイヤリティのことであり、これは印刷した部数に応じて決定される。たとえば、1,000円の本を10万部刷って、印税率が10%だったとしたら著者の取り分は1,000円×10万×10%で1000万円ということになる。これが小説家の収入のひとつの柱になる。

ここまでは、実は知っている人にとってはよく知られていることで、別に本書を読まなくても調べればわかることではある。本書がすごいのは、これに「著者の本の実際の発行部数」という情報が加わることだ。ノベルス、文庫、単行本それぞれで発売以後売上がどのように推移していったかなどが月次の表・グラフで具体的な数字と共に解説されている。売れている本は帯によく「累計◯万部突破」というキャッチコピーがついているので、全体の部数は想像がついても普通それがどのような推移で実現された数字なのかは、出版社と作者以外にはわからない。そういう情報を開示したという点で、本書はまさに前代未聞の一冊なのだ。

ドラマ化や映画化で本をどれだけ新しく売れるのか

売上推移の数字を見ていると、基本的に発売から時間が経つにつれて売上が逓減していくことが読み取れるが、ある月になって突然跳ねている箇所が存在することに気づく。これは、その本がドラマ化されたり映画化されたりした影響で、そういうことがあると小説はまた売れ出すようになる。

ドラマ化や映画化がどの程度のインパクトを与えるのか、具体的な数字についてはぜひ本文を読んでいただきたいのだけど、本書が面白いのはそのメカニズムについても一定の考察を試みているところだ。テレビや映画の影響がなくても小説を読む日本の人口の数%に満たないが、これがマスメディアに乗っかった瞬間に普段から本を読まない層にもリーチすることになる。著者の概算だと、ドラマ化された番組の視聴者の98%は原則の未読者ということになるようだ。

結局のところ、本を大量に売るためにはどこかの段階でマスメディアに取り上げられることは必須なのだろう。もっとも、今後長いスパンで起こるであろう消費の多様化を考えると、このような形でミリオンセラーを生み出すのは難しくなるだろうと著者は考察している。

小説家という職業をビジネスとして見る

こうやって数字ベースで収支報告を読んでいると、小説家という職業もひとつのビジネスであるということがよくわかる。そうやってビジネスとして捉えた場合に、著者なりの「勝つための戦略」があることも本書を読むとわかってくる。

本が売れない、出版不況だと言われて久しいが、今後の作家に必要なのはこのようなビジネス感覚なのかもしれない。小説家になりたいと考えている人にとって、本書は間違いなく必読の一冊ということになるだろう。特に作家志望というわけではなくても、およそビジネスに関わる人であれば、本書の内容は参考になるに違いない。


日野瑛太郎
ブロガー、ソフトウェアエンジニア。経営者と従業員の両方を経験したことで日本の労働の矛盾に気づき、「脱社畜ブログ」を開設。現在も日本人の働き方に関する意見を発信し続けている。著書に『脱社畜の働き方』(技術評論社)、『あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。』(東洋経済新報社)がある。