前回大会の再現となった女子ワールドカップ決勝。アメリカの執念の前に一敗地にまみれ、銀メダルに泣いたなでしこジャパンだが、序盤に大量4失点を喫しても下を向くことなく宿敵にくらいついた。日本中のファンの胸を打った「折れない心」の源泉を探る。
アメリカが開始早々から奇襲を仕掛けてきた理由
スタジアムに「U.S.A.コール」が鳴り響くなかで、新たな世界女王が歓喜の雄叫びをあげる。同じ舞台から日本中へ笑顔と勇気を届けてから4年。なでしこジャパンは宿敵アメリカの姿を脳裏に焼きつけながら、勝者を称える拍手を送ることを忘れなかった。
PK戦の末に苦杯をなめた前回大会の借りを返すべく、アメリカは奇襲を仕掛けてきた。前半わずか3分。右CKをグラウンダーで蹴ってくる。虚を突かれ、反応が遅れたなでしこをあざ笑うように、フリーで走り込んできたMFロイドの一撃がネットを揺らした。
今大会で初めてリードを許す展開に、浮き足立つなでしこ。「らしさを取り戻される前に叩き潰せ」とばかりに、前半16分までに4ゴールを奪ったアメリカの鬼気迫る波状攻撃は、それだけなでしこの粘り強さを恐れていた証でもあった。
実際、なでしこの心は折れなかった。ドイツのGKアンゲラーがもっていた540分間の大会最長無失点記録更新まであと1分と迫った前半27分。FW大儀見優季の左足が、アメリカの守護神ソロの牙城を打ち破る。
後半7分にもMF宮間あやの絶妙なFKが相手のオウンゴールを誘発する。直後に1点を追加されても誰も下を向かない。DF鮫島彩は足をつらせても必死に走り続けた。左足骨折で戦線を離脱していたFW安藤梢も日本から駆けつけ、ベンチで声援を送り続けた。
試合は2対5で負けた。それでも、なでしこの真骨頂でもある「折れない心」は最後まで発揮された。彼女たちはなぜ愚直に、ひたむきに戦い続けることができるのか。
レジェンド澤穂希が悲痛な祈りを捧げた日
歴史を振り返れば、彼女たちは女子サッカーの存亡をかけた戦いに何度も臨んできた。そのたびに歯を食いしばり、魂を削りながらバトンをつないできた。その象徴となるのが2004年4月24日、国立競技場で行われた北朝鮮女子代表戦だ。
勝てばアテネ五輪出場が決まり、負ければ可能性が消滅する大一番。相手はそれまで一度も勝ったことのない強敵。しかも、日本女子サッカー界は崖っぷちの状況に直面していた。 国内のL・リーグはバブル経済破綻の余波で1990年代の終盤から撤退チームが続出し、縮小の一途をたどっていた。しかも、日本女子代表はシドニー五輪出場を逃している。
その上でアテネ五輪出場も逃せば、日本の女子サッカーそのものの灯が消えてしまう。北朝鮮戦当日の午前中。宿泊していたホテルの近くを散歩していたMF澤穂希は、参拝した神社でこんな祈りを捧げている。
「他には何も望みません。だから、今日だけは勝たせてください」。
当時の澤は右ひざの半月板を損傷し、歩くことすらままならない状態だった。痛み止めの注射を打ち、座薬までも服用して、まさに執念でキックオフに間に合わせた。
果たして、運命の一戦は日本が3対0で制した。チームを鼓舞したのは、ファーストプレーで相手選手を吹っ飛ばした澤の背中だった。
世界一獲得への序章となった予告ゴール
ひたむきに戦う彼女たちの姿に日本サッカー協会(JFA)の幹部が感銘し、愛称「なでしこジャパン」が公募されるきっかけとなった北朝鮮戦から約6年後。再びターニングポイントが訪れる。
中国・成都で開催されていたAFC女子アジアカップ。初優勝を狙っていたなでしこは準決勝でオーストラリア女子代表のパワーの前に屈し、中国女子代表との3位決定戦に回った。
この大会は翌2011年にドイツで開催される女子ワールドカップのアジア予選を兼ねていた。アジアの出場枠は「3」。中国に負けていたら、その後のすべての歴史が変わっていたことになる。
しかも、なでしこは2トップの一角、大野忍を右太もも裏の肉離れで欠いていた。中国戦前夜。大野はホテルで同部屋だった澤からこんな決意を打ち明けられた。
「シノ(大野)がドイツに行けるためにも絶対に勝つ。絶対にゴールを決めるからね」。
生きるか、死ぬかの一戦はなでしこの1点リードで迎えた後半17分に大勢が決する。ダメ押し弾を決めたのは、大野のユニホームを重ね着して臨んだ澤だった。
世界一への序章となった澤の予告ゴールを、大野はこう振り返ったことがある。
「それをウチに捧げるとまで言ってくれて。超カッコよかったですよ」。
海外組への支援制度に対して吹き荒れた逆風
6大会連続のワールドカップ出場を決める直前の2010年4月に、JFAは「なでしこジャパン海外強化指定選手制度」をスタートさせている。
なでしこは北京五輪で4位に入ったが、準決勝でアメリカ、3位決定戦ではドイツに完敗。フィジカルの差という壁を超えるために、海外挑戦を考える選手が増え始めていた。
しかし、海外移籍への手順や代理人契約に関するノウハウがない。移籍できたとしても、海外でも年俸は300万円程度。通訳もつかない現実に直面する。
そうした状況を変えるために――。JFAの野田朱美・女子強化担当(現女子委員長)は、代表のキャプテンを務めた自身の経験から弾き出された私案を、約1年間をかけて制度化させた。
海外組に対して1日1万円、1シーズンで約250万円の滞在費を支給するこの制度は、彼女たちを取り巻く状況を劇的に改善した。大儀見や安藤たちは滞在費を語学学校代に充て、コミュニケーション力を向上させて飛躍につなげた。
今大会の代表23人で、現職を含めた海外クラブ経験者は13人。ほぼ全員が「これがなければ海外挑戦は無理だった」と感謝する制度がなでしこの底上げに寄与したことは間違いないが、提案された当初は女子サッカーが置かれてきたステータスを象徴するような逆風がJFA内で吹き荒れた。
「お金を出せば誰でも海外に行きたがる。国内リーグが空洞化する。非常識だ」と。
決勝戦終了と同時に始まった新たな戦い
世界一獲得後にDF岩清水梓らがプロ契約を結んだ国内組だが、残念ながら後に続く選手がなかなか増えていない。たとえば大会MVP候補にノミネートされたDF有吉佐織は、普段はサッカースクールの受付を勤めている。
サッカーと仕事の両立。厳しい待遇のもとでプライベートがほとんどない日々を連想させるがゆえに、メディアからの質問には「大変だとは思いますが」という枕詞がつくことが多い。こうした状況に違和感を覚えているのが、当のなでしこたちとなる。関係者からこんな話を聞いたことがある。
「彼女たちは昔もいまも、大好きなサッカーをもっともっと極めたいと望むピュアな思いと、頑張っていけば必ず環境を変えられるという一途な思いとともにプレーしているんです」。
望んだ色とは異なるメダルを、なでしこは誇らしげな表情で受け取った。よくやったという言葉は、むしろ彼女たちに失礼かもしれない。それでも、前哨戦だった3月のアルガルベカップで9位に沈んだどん底からはい上がり、決勝までの6試合をすべて1点差で勝ち進んできた軌跡には胸を張っていい。
試合後のフラッシュインタビュー。「この4年間で手にできたものは」と問われた宮間は、涙をこらえながらこう答えた。
「最高の仲間たちです」。
GK海堀あゆみや3失点に絡み、前半途中に澤との交代でベンチへ下がった岩清水を、何人もの選手たちがいたわった。一方で狂喜乱舞するアメリカのかたわらで、試合途中から最終ラインを組んだ阪口夢穂、熊谷紗希、宇津木瑠美が真剣な表情でおそらく反省点を話し合っている。
バンクーバーの地で刻んだ悔しさを糧にしながら、最高にして最強の武器である「優しくも折れない心」をさらに磨き上げたなでしこたち。来年のリオデジャネイロ五輪で訪れるであろうリベンジの舞台を照準にすえながら、すでに新たなる戦いを始めている。
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筆者プロフィール: 藤江直人(ふじえ なおと)
日本代表やJリーグなどのサッカーをメインとして、各種スポーツを鋭意取材中のフリーランスのノンフィクションライター。1964年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒。スポーツ新聞記者時代は日本リーグ時代からカバーしたサッカーをはじめ、バルセロナ、アトランタの両夏季五輪、米ニューヨーク駐在員としてMLBを中心とするアメリカスポーツを幅広く取材。スポーツ雑誌編集などを経て2007年に独立し、現在に至る。Twitterのアカウントは「@GammoGooGoo」。