日本銀行は24日、日本証券アナリスト協会主催の国際セミナーで講演した、中曽宏副総裁の「アジア経済の過去・現在・未来」の講演内容を発表した。それによると、中曽副総裁は「アジア経済が克服すべき「3つの課題」があると指摘した。
アジアの未来について、国際機関や民間の長期予測では、高めの成長を続け、世界に占めるシェアを着実に高めていく姿を展望しているという。こうした予測では、暗黙のうちに一つの重要な前提が置かれているという。それは、アジア諸国がいわゆる「中所得の罠」に陥ることなく、成長のモメンタムを維持していくということ。後発国は豊富な資源や、技術移転を背景に高い成長を続けることで、低所得国から中所得国に移行していく。もっとも、産業の高度化を徐々に進めない限り、キャッチアップ型の成長はいずれ行き詰まる。世界の国々の経済発展の軌跡を眺めると、中所得国から抜け出せないケースが多々見受けられるという。こうした経験則を指して、一般に「中所得の罠」と称されている。低所得国から中所得国に移行する過程では、農村の余剰労働力の流入が、賃金を抑えることを通じ、輸出競争力を高める。もっとも、開発経済学におけるいわゆる「ルイスの転換点」を過ぎると、賃金が上昇し始めるため、企業の利潤が減少に向かうほか、輸出競争力が低下することを通じ、成長は伸び悩みがちとなるとしている。
実は「中所得の罠」についても、アジアの幾つかの国は「奇跡」を起こし、世界を驚かせた。まず、わが国では、1960年代に「ルイスの転換点」を迎えたが、60年代半ばから70年代初頭にかけて、年率10%成長を超える「いざなぎ」景気を経験した。また、「4匹の虎」(香港、韓国、シンガポール、台湾)も「中所得の罠」に陥ることなく、経済の発展を続けているという。これらの経済で起きたことを振り返ると、供給面では、旺盛な設備投資が、資本装備率の拡大を伴いつつ、製造業を中心に生産性の上昇をもたらしたとしている。需要面では、こうした投資自体が需要を生み出したほか、生産性の上昇を通じた競争力の強化によって、輸出も持続的に拡大した。農村部から都市部に流入した人口は、分厚い中間層を形成し、消費の拡大をもたらすことにもなったとしている。
アジア経済全体で高成長を続けるために克服すべき3つの課題
生産性を持続的に高めていくこと
後に続くアジア諸国は、今後も「中所得の罠」に陥ることなく発展を続け、アジア経済全体で高成長を続けために克服すべき課題を「挑戦」として、3つの点を指摘した。
まず、第1の挑戦は、生産性を持続的に高めていくことだという。とくに、従来のアジアの成長モデル、すなわち輸出と内需の両輪を通じた成長を引き続き強化していくという観点から、以下の点に取り組むことが重要だとしている。
- グローバルな競争環境の変化への適応
まず、輸出を持続的に拡大させていくために、グローバルな競争環境の変貌に上手く適応する必要があるという。世界の貿易量はこのところ世界経済の成長対比で低めの伸びとなっており、エコノミストの間で「貿易停滞」というテーマで活発な分析が行われている。「貿易停滞」の背景については、輸入誘発力の高い設備投資が過去に比べて低調に推移しているといった循環的な要因が寄与している面があるという。それと同時に、より構造的な側面として、アジアが成長の梃子としてきたグローバルなサプライチェーンの拡大が成熟期を迎えていることを指摘する向きもあるとしている。
とりわけ、アジアにおけるグローバルなサプライチェーンのハブとして機能してきた中国の動きには、近年変化が見られるという。ひとつには、中国では、国内における自国生産部品の利用、すなわち内製化が進んでおり、周辺諸国から中国への輸出が伸び悩む傾向が見て取れるという。また、2015年は中国の対外直接投資が対内直接投資を上回る画期的な年になることが確実視されており、中国企業による周辺諸国における生産拠点の構築が一段と進むことは、サプライチェーンの再編を促すという。これらは、アジアの企業にとって、大きな環境変化だとしている。
加えて、アジアでは、ASEAN統合を控えている。貿易を巡る様々な障壁の撤廃は、域内における貿易活動を一段と活発化させる一方、モノやカネの流れを変化させ、競争を激化させるという。このような環境変化を乗り切るには、「中所得の罠」を乗り越えてきた国・地域の経験を踏まえると、重要なことは、これまでの成功体験に囚われず、先々を見据えて環境の変化に柔軟に対応し果敢に挑戦していくことだとしている。その際にポイントとなるのは、時に疎かになりがちな研究開発投資などに投資資金を振り向けて、戦略的に産業構造の転換・高度化を進めることだという。強みを有する産業を育成できれば、輸出面での競争力を維持・向上させることが可能になるとしている。
- サービス産業の育成と都市化の推進
これに加えて、内需の持続的拡大を図っていく上では、財への需要が次第に飽和していく中で、如何にサービス産業を育成してその生産性を引き上げていくかも重要だという。サービス業は一般に労働集約度が高く、製造業に比べ労働生産性が低くなる傾向がある。このため、アジア各国がサービス化を推進するに当たっては、情報通信技術などを積極的に活用した付加価値の高いサービス産業を育成し、サービス経済化の下でも、経済全体の労働生産性を高めに維持していくことが重要だとしている。
その際、都市化の推進が鍵を握るという。アジアでは、中国をはじめ幾つかの国が、都市化の進展を政策目標として掲げている。都市への人口集積が、中間層の拡大を伴うこととなれば、付加価値の高い財やサービスに対する需要を引き出すことが可能になるとしている。
- インフラ投資の拡大
輸出と内需の双方の拡大にとって必要な施策としては、インフラ投資の拡大も重要だという。アジアでは、インフラの未整備が産業高度化のボトルネックになっている国が今なお、見受けられるとしている。例えば、安定的な電力供給は、製造業を誘致する上での前提となる。輸出拡大には港湾や道路の整備が不可欠だという。また、都市化を推進する上でも、住宅のほか学校や上下水道といった住環境の整備が必要となる。アジア開発銀行の調査によれば、アジアでは2010年からの11年間に、電力や道路を中心に8兆ドル規模の莫大なインフラ投資が見込まれている。インフラの整備は、それ自体内需の拡大につながるだけでなく、技術力のある海外企業の投資を促すことで、生産性の押し上げにも寄与すると考えられるとしている。
人口動態の変化への対応していくこと
第2の挑戦は、人口動態の変化に対応していくことだという。アジアは多様な国・地域から構成されており、人口動態の局面も様々。例えばインドのように、これから人口ボーナス期を謳歌する国もある。他方で、「4匹の虎」のほか、中国やタイでは少子高齢化が着実に進んでいる。とくに中国やタイでは、中所得国のまま人口ボーナス期から人口オーナス期へ移行している。こうした人口動態面からの変化に対応して、如何に安定成長を続けていくかは、まさに大いなる挑戦だとしている。この点については、わが国の経験が大変参考になるという。中曽副総裁が日本の経験から得られた重要な教訓のひとつは、人口オーナス期が成長率を引き下げる効果は供給と需要の両面から働くという点だと考えているという。供給面で労働供給制約が潜在成長率を引き下げることは広く認識されている。実際、日本では2000年代以降就業者数が減少に転じたほか、家計貯蓄率が低下して行く中で、資本蓄積も鈍化したという。
一方で、需要面を通じた効果は見落とされがち。わが国の場合、少子高齢化の進展とともに、例えば、高齢者向けの財やサービスに対するニーズは拡大したが、企業側の対応が必ずしも円滑に進まず、潜在的な消費需要を十分に引き出すことができなかったという。社会保障制度の面では、年金や医療保険を巡る厳しい財政状況が、将来の負担増として意識されたことが慎重な消費行動につながった面もあるとしている。こうした人口オーナスがもたらす深刻な影響を踏まえると、人口オーナス期における負の影響を早い段階できちんと認識し、それを緩和するために先手を打っていくことが重要だとしている。
具体的には、供給面では、就業者の減少へ対応する観点から、女性や高齢者の労働参加率を引き上げていく必要があるという。アジアの女性や高齢者の就業率は、西欧の先進諸国と比べて全体として低い傾向にある。女性や高齢者が働きやすい環境を整備し、その潜在的な力を活用していく必要があるという。需要面では、高齢者需要を引き出すという点で、企業が多様なニーズを的確に捉え、例えば旅行や介護といったサービス、高齢者向けの操作が容易な家電製品などの開発を通じ、需要を掘り起こしていく取り組みが待たれるとしている。
グローバルなショックへの頑健性を高めていくこと
第3の挑戦は、グローバルなショックへの頑健性を高めていくことだという。これまでのアジア経済の成功の大きな理由として、域外の資本フローを取り込み、有効に活用してきたことが挙げられる。当初は、直接投資が「世界の工場」としての地位を確立する過程で大きな役割を果たした。その後は、証券投資などの資金も流入するようになり、結果として生じた資本フローのボラティリティの高まりからアジア新興諸国が経験したのが、1990年代後半のアジア通貨危機だった。
この経験を踏まえ、アジア各国はグローバルなショックに対する頑健性を高めるべく制度の枠組みを柔軟に見直してきたという。例えば、為替制度は事実上のドルペッグから、より柔軟な為替政策へと移行した。その上で、速いペースで外貨準備高を増加させたという。また、金融システムの強化という面では、マクロ・プルーデンス政策の導入を他地域に先んじて進めてきた。さらに、金融市場の整備という観点からは、域内で現地通貨建て債券市場の育成にも取り組んできした。こうした一連の対応もあって、2008年のリーマンショックを発端とした世界的な金融危機の際におけるアジア市場への打撃は、相対的に小さなものになったと評価されるという。
もっとも、グローバル化が不可逆的に進む下でアジア市場が国際金融資本市場に組み込まれていく過程にあっては、アジアの金融市場を巡る資本フローのボラティリティは、否応なしに高まる傾向にあるという。そうした中で、グローバルなショックに対する頑健性を一段と高めていくことは大きな挑戦であり、中曽副総裁は以下の3つの方向性を指摘した。
- 域内貯蓄の域内における有効活用
第1の方向性は、アジア域内の豊富な貯蓄を域内で有効に活用する金融仲介メカニズムを拡充していくこと。従来、アジアでは、主に銀行が信用仲介チャネルを担ってきたことから、資本市場は必ずしも発達してこなかったという。そうした下で、豊富な貯蓄が域内に留まらず、結果として先進国に向かい、これがアジアに資本フローとして戻ってくるという流れになっていたという。その場合、グローバル投資家の僅かなリスクアペタイトの変化が、資本フローの巻き戻しを引き起こし、規模の小さい新興国市場に大きな変動をもたらしたとしている。
こうした弊害を克服するためには、銀行を通じた信用仲介チャネルの機能を強化すると同時に、それ以外のチャネルの選択肢を増やすことが不可欠だという。とくに域内での現地通貨建て債券市場の発展を推進していくことは、各国の貯蓄を国内で循環させ投資に向かうよう促していく上で重要だという。実際に、アジアの債券市場は、2000年代後半以降、飛躍的に拡大した。その背景は、関係者の市場整備に向けた尽力もあって、会計制度をはじめ域内企業のディスクロージャーの充実や共通化などソフト面でのインフラ整備が進んだことも挙げられるという。通貨別にみても、外貨建て債券比率が趨勢的に低下してきた。ただし、先進国の異例の緩和政策の下で調達コストが低下したため、外貨建て債券比率はこのところ幾分上昇しているという。現在、米国の金融政策が正常化に向かうことが展望される中にあって、これがアジア企業の債務返済能力に及ぼす影響などについては注意していく必要があると考えているという。
- 経済統合に伴うクロスボーダー取引の活発化
第2の方向性は、先行する貿易などの実体経済面の統合に加え、金融面での統合を進めていくことだという。これらが相まって、アジア域外からだけでなく域内のクロスボーダー取引が活発化し、資金循環が活性化することが期待されるという。域外資本に過度に依存すると、アジアには無関係な事象で与信が突然打ち切られたり、資本が急に流出したりする可能性が高まるという。域内でのクロスボーダー取引の拡大は、投資家の拡がりと厚みをもたらすことを通じ、頑健性を高めると考えているとしている。
アジアの場合、各国間で金融市場の発展段階が大きく異なるため、経済統合の先達である欧州などと比べて、統合に向けたハードルは低くないという。それでも、法規制面や市場慣行の調和を進めていけば、クロスボーダー取引の活発化に繋がっていくと考えられるという。
- 域内セーフティネットの拡充
第3の方向性は、域内セーフティネットを拡充することだという。とりわけ、国や金融機関が短期的に流動性不足に陥った場合の危機の連鎖と拡大を防ぐことが重要となるとしている。
この点、国レベルでの流動性危機の防止という観点からは、二国間スワップのほか、ASEANおよび日本・中国・韓国との間で、短期のドル資金を各国が融通する仕組みであるチェンマイ・イニシアティブの拡充と機能強化が図られてきているという。また、金融機関の流動性危機の防止も中央銀行にとっての大きな関心事だという。リーマンショックを発端とした世界的な金融危機の経験は、各国の中央銀行にとって、金融機関の資金調達体制がしっかりと整えられ、厚みのあるインターバンク市場が発展した、健全な金融システムを育成することの重要性を改めて認識させることとなったという。
こうした下で、アジアの中央銀行間では、銀行の域内相互進出が近年進む中、現地通貨の調達環境を整備する動きが進んでいる。そうした努力の一環として日本銀行は、アジア各国の中央銀行との間でクロスボーダー担保取極を結んでいるという。これは、日本の金融機関が、拠点を展開している先の国の市場で現地通貨の調達に窮した場合、円資産を担保として現地の中央銀行から現地通貨の供給を受けられる仕組み。これまでに、タイ、インドネシア、シンガポールの各中央銀行との間で、こうした万一の場合に備えた枠組みを構築しているという。さらに2月には、フィリピン中央銀行との間で、円の現金を担保とするクロスボーダー担保取極を締結した。
このような域内セーフティネットの運営に当たっては、各国において直面する政策課題の共有や、国際金融市場の急変に備えて迅速に対応できる体制の整備も求められるという。こうした観点から、日本銀行は、アジア各国の中央銀行と協力して、東アジア・オセアニア中央銀行役員会議(EMEAP)の運営などにも積極的に貢献していくとしている。
3つの観点からアジア経済の直面する挑戦を克服してこそ、アジア経済の持続的な成長が実現するという。中曽副総裁は、アジアはこれらの挑戦を乗り越えていくために十分に高いポテンシャルを有しており、21世紀が「アジアの世紀」となる可能性は高いとみているという。