マイナビニュース読者の皆さんは、「電卓」にどのようなイメージを抱いているだろうか。「誰でも1台は持っている」「考えてみるとすごい機械」「でも、なぜか安価に手に入る」「家計簿をつけるときに重宝する」など、人によって様々な思い入れがあることだろう。
今回は3月20日の「電卓の日」を前に、日本有数の計算機コレクションを持つ東京理科大学の「近代科学資料館」と、カシオ計算機の往年の計算機や電卓を展示している「樫尾俊雄発明記念館」を訪ねた。往年の貴重な計算機とそれにまつわるエピソードをお届けしよう。
古代人が使用した計算道具とは?
まずは近代科学資料館の展示を紹介しよう。まず、古代人が計算に使っていた石、まきびし、江戸時代の算木、アメリカ先住民の角算具、中国の円形そろばんなどの計算器具。
続いて、計算機械がつくられるようになった17世紀。数学者・物理学者のパスカルによる計算機パスカリーヌ、哲学者・数学者のライプニッツによる計算機などを経て、計算機械はやがてヨーロッパ各地に普及していった。
スウェーデンで手動計算機が開発されると、欧米各地で改良機種が作られた。日本でも、1923年に大本寅次郎が「タイガー計算器」を開発。電卓が普及する1970年代まで、手回し計算機の代名詞的な普及機となった。
19世紀末にアメリカで開発されたのは、フルキー方式の計算機。すべての桁に0から9までの数字キーが備えてあり、各桁のキーを押すことで数値が入力される。やがて電気モーターが発達すると、モーターの力で機械式計算機を駆動する電動式計算機が作られるようになった。
電卓がマイクロプロセッサーを生む
1944年にはハーバード大学に大型電気式の計算機が納入され、コンピュータの時代が始まる。真空管、トランジスタを経て、1970年代にはマイクロプロセッサーが登場。ちなみに嶋正利がアメリカのインテル社で設計した「i4004」が、世界初のマイクロプロセッサーとされている。i4004は電卓に使用する大規模集積回路のために開発されたもの。これがやがてパソコン、デジタルカメラ、携帯電話、スマートフォンに応用されるようになった。つまり電卓が半導体を育て、半導体がコンピュータの進化の源になったといえる。
1970年代以降、電卓の小型化、多機能化、低価格化が進んだ。それを牽引したのは、カシオ計算機、シャープ、ソニー、東芝などの日本のメーカーだ。1974年(昭和49年)には、日本の電卓の生産台数が1,000万台を突破して世界一になっている。本稿の冒頭で紹介した「電卓の日」は、これを記念して日本事務機械工業会(現:JBMIA)が制定したものである。
樫尾俊雄発明記念館で"カシオ計算機"の歴史に触れる
近代科学資料館で電卓の進化の歴史を学んだ後は、カシオ計算機の創業者の一人である故・樫尾俊雄の自宅を改装した「樫尾俊雄発明記念館」を訪ねた。記者が通された「発明の部屋」には、世界初の小型純電気式計算機「14-A」の実機が展示されていた。1957年(昭和32年)に発売された同製品は、演算速度、静音性で当時の競合製品を圧倒する性能を有したもの。国立科学博物館、米国のスミソニアン博物館にも収蔵されている歴史的な遺産だ。長い間保管していたユーザーから提供された製品を、14-Aの保守を担当していた当時のエンジニアが何か月もかけて修理し、動作できる状態にまで復活させた。
14-Aには、電磁石の動作によってスイッチの接点をオン・オフさせるリレー(継電器)が341個用いられているという。背面にまわると、そのリレーを確認することができた。当時、欧米製の電動計算機には歯車やレバーが詰め込まれており、大変な重量だった。