ここに来て、より一層目覚しい活躍をしている町田樹選手。その成長の裏にある理由とは

ソチ五輪があった2013-2014シーズンが終わってから半年以上が過ぎた10月25日、ついにグランプリシリーズ(GP)が開幕した。2018年の平昌五輪へ向けての第一歩となるシーズンだ。

五輪までの4年間を「1年1年の積み重ね」と考えて進んでいこうとする選手もいれば、新たな一つの大きな枠ととらえ、中長期的な計画を立てる選手もいるだろう。採点基準などのルールが大きく変わった中、新しいシーズンをどのように過ごすのか、各選手の取り組みに注目が集まる。

「密度の高い」町田樹の演技

そんな中、GPの第1戦・スケートアメリカ大会で優勝したのは町田樹だった。しかも、出場12名の中で、その内容や出来栄えは群を抜いていた。

ショートプログラムの「ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲」では、冒頭に4回転から3回転の連続トゥーループを決めたのをはじめ、流れにのった演技で場内を魅了する。フリーのベートーベン「交響曲第9番」でも、4回転ジャンプをただ1人、2度成功させる。後半にトリプルフリップの着氷時で手をつきはしたが、スピード感に支えられた情感あふれる演技を披露。2日続けて、観客からの割れんばかりのスタンディングオベーションを受けた。

演技の終了直後はすべてを出し尽くしたような、放心しているかのようだった町田は、試合後の取材でこうコメントした。

「過酷でしたが、歓声ですべてが報われました」。

GPを控えた記者会見で、町田は今シーズンのテーマに「極北」をあげていた。「たくさんの解釈ができるとは思うんですけど、僕がここで具体的に述べることはしません」と語った上で、こう続けた。

「ショートプログラムが『悲恋の極北』、フリーが『シンフォニックスケーティングの極北』と銘打って、今シーズン頑張っていきたいと思います」。

まさに「極北を目指す」と言ったように、密度を極限まで高めるだけ高めたプログラムだからこその演技後の姿であり、しかも初戦であれだけ高い完成度を見せたのである。

ソチ五輪の悔しさが世界選手権の銀メダルへ

五輪をはさんだシーズンを終えた後は、どの選手も多かれ少なかれ、肉体的にも精神的にも疲労を抱えている。それくらい五輪シーズンは過酷なのだ。だから一時的に休養の道を選んだりする選手もいるし、始動がどうしても遅れてしまったりする選手も見られる。

それなのに、町田がここまでハイレベルのパフォーマンスに取り組み、きっちりと仕上げてくることができたのはなぜか。

理由の1つには、五輪シーズンを終えるまでの過程がある。ソチ五輪で、町田は5位入賞を果たした。だがその結果を、「悔やんでも悔やみきれない」と語った。

3位のデニス・テンまでは、ほんのわずかだった。点数にすれば、実に1.68差。「あとジャンプ1つ決めていれば……」。メダルまでのあと少しの"距離"が、強い後悔となっていた。

その悔しさをバネに、3月の世界選手権では銀メダルを獲得して昨シーズンを終えた町田が、今シーズンへ向けて準備をしている最中の夏前に取材する機会があった。そのとき、町田は言った。

「ソチだけを見れば、確かに悔しい結果に終わりました。でもあのソチがあって、世界選手権であれだけの演技をすることができたことを考えたとき、とてもよいシーズンだったのだと思いました」。

さらに続けた。

「もっといけると思えるし、もっと上を目指していきたいと思っています。楽しみにしていてください」。

もしかしたら、悔しさがすべて消えていたわけではなかったかもしれない。でも、シーズンを終えて残っていたのは、手ごたえであり、充実感だった。

多くの選手が苦しむ疲労。その中にはモチベーションも含まれるが、それに苛(さいな)まれることもなく、しっかり前を見据えて、より高いレベルを志し、シーズン開幕へと準備してきた理由がそこにある。

GPでの優勝は、さらなる飛躍の糧か

GP初戦で圧巻の演技を見せた町田は、試合後にこうも語っている。

「羽生(結弦)選手をはじめ、強いライバルが日本にたくさんいます。この初戦で、ライバルたちにボールを投げられたと思います。彼らがどう打ち返し、投げ返してくるのか。その勝負を受けて立とうという強い思いがあります」。

その言葉にも、GP初戦までの充実した過程とスケートアメリカ大会で見せることができた演技への手ごたえと自信が感じられる。

そして、「よいシーズンでした」と振り返ることのできた昨シーズンが今シーズンにつながっているように、初戦で得た手ごたえと自信もまた、町田の今シーズンのさらなる成長の糧となるのではないか。そうも思わせた優勝だった。

写真と本文は関係ありません

筆者プロフィール: 松原孝臣(まつばら たかおみ)

1967年12月30日、東京都生まれ。早稲田大学卒業後、出版社勤務を経てフリーライターに。その後スポーツ総合誌「Number」の編集に10年携わった後再びフリーとなり、スポーツを中心に取材・執筆を続ける。オリンピックは、夏は'04年アテネ、'08年北京、'12年ロンドン、冬は'02年ソルトレイクシティ、'06年トリノ、'10年バンクーバー、'14年ソチと現地で取材にあたる。著書に『フライングガールズ-高梨沙羅と女子ジャンプの挑戦-』『高齢者は社会資源だ』など。