日本では海岸線はもとより、田沼や河川近くの低湿地に盛り土して町を作ってきた歴史がある。そんな土地は、地名にもかつて低湿地だった名残がある。例えば梅田。この大阪一の繁華街も昔は田んぼ地帯、地名も元は「埋田」だったのだ。
国土地理院は2013年3月、明治前期の土地利用の状況を判読・分析し、湖沼、水田、湿地など水に関係する土地の区域を抽出した国土地図「明治前期の低湿地データ」を一般公開している。こうした動きは、東日本大震災で問題になった「液状化リスク」を受けてのものだ。
低湿地に関する関心の高まりの中で、注目されているのが地名である。地名の由来にはいろいろあるが、土地の形状や状態などを由来とするものも多く、かつて低湿地だったことを表している地名も少なくないからである。
ただ、念頭に入れていただきたいのは、低湿地が直ちに液状化の危険が大というわけではない。地盤の整備や土壌の改良で、低湿地であったという問題をクリアしている土地もある。液状化の危険を正しく知るためには、自治体や国土地理院などが公表している防災マップを参照することをお勧めしたい。
埋田が梅田と美称された地名は東京にも
では、かつて低湿地だったことを表している地名にはどんなものがあるのだろうか。まずは冒頭で示した大阪の梅田だ。キタの繁華街の中心である梅田の元の地名は「埋田」だったという。大阪はご存知の通り豊臣秀吉の町づくりによって発展した都市だが、秀吉の頃のこの一帯は大阪の北のはずれで、淀川が幾度となく氾濫を起こす海抜ゼロメートルの低湿地。そこを埋め立てて田畑にしたので「埋田」の地名となった。
この埋田の地名が梅田へと変わるのは江戸時代。「埋」が「梅」に美称されて「梅田」になったというのが定説である。近松門左衛門の『心中天網島』には梅田橋の名が登場するので、17世紀の後半には梅田になっていたと推測されるが、この地域は明治になって大阪駅が作られた時にも、見渡す限り田んぼが広がっていたという。
ちなみに、埋田を梅田と変えた地名は東京にもある。足立区の梅田。風土記によれば、この地域は海に面した河口部で、川の流れで運ばれた堆積物が広がる低湿地だったようだ。それが後に埋めてたてられて新田となったので埋田と呼ばれ、さらに時代を経て梅田と美称されて今日に至っているとのこと。大阪の梅田と同様の経緯である。
池袋などの「袋」は湿地帯の意味合いも!?
東京の池袋も、また低湿地由来の地名である。現在の池袋駅西口一帯には「袋池」という名の袋状の池があり、この池が池袋の地名の由来とされる。
池袋から遠くない距離にある中野区の沼袋も、沼があったことが地名の由来。池袋、沼袋に共通する「袋」とは、洪水などによって自然にできた池や沼を意味する言葉らしく、この「袋」の付く地名はたいがいが湿地帯だったと考えて良いらしい。茨城県の石岡市にも池袋という地名があって、こちらも湧き水の豊富な土地という。
足立や蒲田など、水辺のものも由来に
この他、水辺に特有の植物や動物の名前が地名に入っている場合も、低湿地だった可能性が高い。例えば杉並区の井草がそうで、この地は善福寺池、妙正寺池周辺の低湿地で藺草(いぐさ)が生い茂っていたからこの地名になったという説が最も有力だ。
足立区の足立の由来は諸説あるが、葦(あし)が立つように生い茂った土地だったからとする説もある。また大田区蒲田は、蒲(がま)が生えている田があったからという説、泥深い鎌田があったからという説、地名由来に諸説があるが、いずれもこの地が湿地だったことを示している。
板橋区の蓮根は、昔の蓮沼村と根葉村が合併した時に両村の頭文字を合わせて作られた地名だが、蓮沼から連想されるようにこの地一帯は、志村の原、下の原と呼ばれる葦や萱の生い茂る低湿地だった。水生植物の蓮とも無縁ではないだろう。
煎餅で有名な埼玉県の草加市も、街道筋に沼地が多く、これを土や柳の木、葦などの草で埋め固めたことから草加となったという伝承もある。
国土の狭い日本では、古代より低湿地を埋め立てて田畑や宅地を造成してきた歴史がある。地名はそんな歴史の証人でもあるのだ。
参考文献:『地名に隠された「南海津波」』(谷川彰英著・講談社α新書)、『地名の由来から知る日本の歴史』(武光誠著/ダイヤモンド社)