東照宮と言えば日光、銀座と言えば東京中央区の高級商店街でもとは江戸の銀貨鋳造所、そして国技館と言えば両国。常識と言ってもいいぐらい、皆さんご存じのことだろう。しかし、実はかつてこれらが大阪にも存在していた時代があったのだ。
秀吉のお膝元で徳川家の威光を示した川崎東照宮
江戸時代の遺構として、そして世界遺産としてあまりにも有名な日光東照宮。しかし、この「東照宮」が大阪にもあったことはあまり知られていない。
実は、2代将軍・秀忠が家康を東照大権現として日光東照宮に祀った際、全国に東照宮の摂社の建立を命じ、日光以外にも全国各地に東照宮が建立されたのだ。大坂夏の陣の後、大坂の町の復興にあたっていた松平忠明は、大坂城の北側・天満川崎の地に「川崎東照宮」を造営。日光東照宮に勝るとも劣らない立派な社殿だったという。
幕末の維新軍との争乱の中で、この川崎東照宮は急激に衰退していき、明治6年(1873)に廃絶。現在はその跡地にある滝川小学校の門前に、「川崎東照宮跡」と刻まれた石碑がひっそりと建つのみとなっている。
もともと京と大坂で始まった「銀座」
東京の数ある繁華街の中でも長い歴史と風格を持つ高級商店街・銀座。もとは江戸時代に貨幣の鋳造所が置かれた区域で、丁銀や豆板銀などの銀貨を鋳造していた「銀座役所」に由来するというのは、多くの人が知っているだろう。実はこの「銀座」、江戸に置かれるよりも前の1601年、京都・伏見に設けられた銀貨鋳造所が始まりとされている。
伏見銀座は1608年に京の室町と烏丸の中間地点辺りに移され、時を同じくして大坂にも銀座が設けられる。大坂銀座は銀貨鋳造所ではなく、生野銀山や石見銀山からの銀を集積して京の銀座に送ること、そして大坂の商人の間でやり取りされ古くなった銀貨を回収して、新しい銀貨と交換することなどが主な役割であった。
その後、京や大坂の銀座は1801年頃には廃止され、江戸の銀座のみが機能を一手に担うこととなる。現在、京都市の中京区御池通から両替町を上がってすぐのところ、そして伏見区銀座1丁目に、それぞれ銀座跡の石碑が立っている。また、大坂の銀座跡碑は大阪市中央区高麗橋のビジネスビルの前で見ることができる。
大阪相撲協会が造営した国技館
さて、「国技館」と言えば、言わずと知れた日本相撲協会が管理運営する興行施設・両国国技館のこと。しかし、かつては大阪にも国技館が存在したのをご存じだろうか。その昔、江戸以外にも、京や大坂にそれぞれ相撲の興行団体が存在していた。そして明治になると、東京相撲協会と大阪相撲協会がそれぞれ成立する。
東京では明治42年(1909)、初の常設相撲場として両国国技館(初代)が完成。すると、大阪相撲協会も負けじと大正8年(1919)に現在の大阪市浪速区、通天閣の近くに両国と同規模の国技館を建てた。これが「大阪国技館」である。
しかしこの頃、すでに大阪相撲は衰退期に入っており、大阪国技館完成を持ってしても勢いを盛り返すことはできず、大正14年(1925)、大阪相撲は興行を停止。国技館は劇場として活用されることとなり、やがて戦時の大阪大空襲で焼失した。
当時の両国国技館をも凌ぐ規模の大国技館
昭和2年(1927)、東京、大阪それぞれの相撲協会がいったん解消し、大日本相撲協会が発足。その後、昭和の大横綱・双葉山の登場などもあって相撲人気はさらに高まっていく。
この盛り上がりを受け、今度は大日本相撲協会の興行施設として、昭和12年(1937)に再び大阪に国技館が造られる。場所は現在の大阪市城東区。その規模は、建坪3,000坪、鉄筋コンクリート4階建てドーム式、収容人員2万5,000人で当時の両国国技館をも上回り、「大阪大国技館」などと呼ばれていた。
ところが、不運にも完成間もない昭和16年(1941)、戦局の悪化から相撲興行は中断。戦中は倉庫として転用され、戦後は進駐軍によって接収。大相撲大阪場所が再開された昭和28年(1953)には、既に建物は解体されてしまっていた。
昭和40年(1965)頃の旧両国国技館※昭和33年(1958)からは両国日大講堂(画像提供:墨田区立図書館) |
当時の両国国技館を上回る規模だった昭和12年(1937)竣工の大阪大国技館(画像提供:城東区役所) |
このように、京や大坂は江戸時代、特に中期までは江戸を上回る経済・産業・文化の中心地であり、大阪ではその勢いが、昭和初期まで続いていたことがうかがえる。