82歳の現役フランス人看護師のポレット・フォシェ(Paulette Fauche)さんに、これまでのキャリアと、長年勤務した病院を定年退職後に開始した医療ボランティアとしての活動について伺いました。ポレットさんは、フランス・パリに本部を持つ国際NGO「世界の医療団」(Medecins du Monde)の医療支援メンバーです。

専業主婦になるのが当たり前の時代に、仕事を続けた

ポレット・フェシェさん
1931年生まれ。20歳で看護学校卒業後、就職とほぼ同時期に結婚、2児をもうける。手術室の看護師として31年間勤務。94年の退職後はボスニア、コソボ、東ティモールの救急医療支援や、カンボジア等で形成外科医療に携わる。派遣以外の時間は6人の孫やひ孫の面倒を見る傍らパリでホームレス支援をする等、現在も精力的に活動する82歳の現役看護師

--生まれ育った町や子供時代の思い出、当時の人々の暮らし等について教えてください。

1931年、フランスのモンペリエという街の乳母の家で生まれ、第二次世界大戦が始まる10歳までその家庭で過ごしました。私自身に兄弟はいませんが、その家の子供や他にも預けられた子供がいて、兄弟のように育てられました。その後スペインに近いペルピニオンという街に移り、戦争が終わるまでの5年間、母と一緒に暮らしました。

17歳になったとき、家を出てベジエという街に移り住みました。そこで今も親友である女友達と知り合い「二人で看護師になろう!」と決めて一緒に看護師学校に入学しました。当時の私は血を見るのも苦手でしたが、「看護師になる」と決めたので自分に言い聞かせて頑張りました。

--看護師になってからはどのような生活でしたか。

就職と同時に私の生活は色々な面で変わりました。51年に看護師の国家資格を取り、ベジエの病院に勤務し始め、10日後に結婚したのです。相手は看護学校に入る前にラグビーを見に行って隣の席に座っていた男性です。

看護師としての仕事は主に肺の手術のオペレーション業務でした。6カ月勤務した後、旦那の仕事を見つけるためにパリに引っ越し、間もなく妊娠しました。すぐに2人目もできたので、2年間は子育てに集中して、また仕事に復帰しました、1963~1994年の31年間、パリ郊外のクリッシーという街にあるオピタル・ボージョン(ボージョン病院)に勤務し、主に心臓と肺の血管の手術のアシスタントをしました。

日本でもそうだったと思いますが、フランスでも70年のウーマン・リブが起こる前までは、結婚したら女性は家庭に入って専業主婦になるというのが普通でした。でも私は仕事を続けていこうという強い意志を持っていましたし、一度辞めてしまうと次の仕事を見つけるのは難しいというのもあります。最初は旦那も辞めてほしいと言っていましたが、徐々に私の考えを理解してくれるようになりました。

定年後、本格的にボランティアの医療活動を始める

--医療支援のボランティアを始めたのはいつですか。また、始めようと思ったきっかけは何ですか

1989年、アルメニアの大地震の直後に世界の医療団のミッションに参加したのが最初でした。当時はまだ病院に勤めていたのですが、私の上司がアルメニア人だったということもあり、病院の理解を得て2週間のミッションに参加することができました。

当初ロシアが外国からの支援を絶っていたため、私が現地に入ったのは地震から5日後でした。多くの建物が崩れていましたし、亡くなった方の遺体もそのままになっていました。埋まっている人を助けようと思っても助けるすべもなく、透析を必要としている人がたくさんいましたがその装置もなく、当然手術をするような環境もなかったので、洋服や食べ物を配ったりするのが精一杯でした。

貢献活動に参加したいと思ったのは、特にこれという理由はありませんが、子供時代複雑な環境で過ごしたので、その反動があったのかもしれません。でも夫がいて子供がいて、その上仕事を長期間休んでボランティアに行くことはできません。だから定年まで、ずっと行きたいと思い続けてきました。94年に定年を迎え、世界の医療団に行って「私はいつでも参加できます。準備万端です」と宣言しました。

カンボジア第二の都市バタンバンでの「スマイル作戦」に日本人医師らと参加(2009年 バタンバン/カンボジア)

国に戻ったときは孫やひ孫の面倒を見て過ごします

--これまでに参加したミッション、国を教えてください

ボスニア、コソボ、東ティモールでの紛争直後の緊急医療に参加しました。またアンゴラでは女性の女子割礼(女性器切除)の風習があり、出産に影響したり尿が止まらなくなる、果ては道に捨て去りにされるといったことが現在も行われています。世界の医療団では手術を行い、女性を救う活動を続けています。そういった活動にも参加しました。

その当時は定年直後でまだ若かったので、ミッションのあとフランスに戻ってパリの街を夜、車で回って路上生活者の支援を続けてきました。日本の活動「東京プロジェクト」と同じです。

2000年からは口唇口蓋裂の手術を行う「スマイル作戦」に参加しています。ベトナム、カンボジアには1年に2、3回行きました。モンゴルやマダガスカルにも行っています。一年にひとつの国に2、3回。計5、6回スマイル作戦で行っている計算になります。国に戻ったときは孫やひ孫の面倒を見て過ごします。

子供の顔などの形成外科手術を行い笑顔を取り戻す「スマイル作戦」に数多く参加(2010年 マダカスカル)

長期にわたる支援活動の中で、現場が変わってきた、成長してきたと思うこともあります。カンボジアのミッションですが、世界の医療団の活動の一環として現地の医師をフランスに呼んで形成外科医の教育をしました。現在では4人の医師が口唇口蓋裂の手術を現地でできるようになったことが、長期支援活動の成果として現れています。

仕事は私の「生きる全て」、思い続けることで状況も打開されていく

--やりたいことを見つけ、更に続けていくための「コツ」があれば教えてください

何か「やりたい」ということを見つけたら、「想い続けて」欲しいと思います。私の場合も、やりたいと思ってすぐにできたわけではありません。ずっと「ボランティアをやりたい」と思い続けて、定年になってようやくじっくりと取り組むことができました。私にとってボランティアの仕事は、決して他人からの賞賛を浴びるためにやっているわけではなく、「自分が誰かに何かを与えてそれが喜びになること」が私にとって大切だから続けられるのです。

仕事は私の人生に必要なもの、「生きる全て」です

私が若い時代には今参加しているようなボランティアのミッションも少なかったし、あってもなかなか参加することが難しいという状況でした。しかし、現在のフランスでは、若い世代がミッションに参加してきていますし、参加できる土台ができれば続いていくのではないかと思います。フランスの世界の医療団では、若い人たちが海外の活動に行けるように、60歳を超えた人たちがフランスに残って事務、宣伝等の業務を請け負っています。状況は少し改善されてきています。年齢・世代・国に関係なく、「やりたい」ことを「想い続け」て欲しいですね。想い続けることで状況も打開されていくと思います。

--最後の質問です。ポレットさんにとって、仕事を続けてきたのはマラソンのように遠くにある目標を目指してペース配分をしてこられたのですか。それとも100m競争のように目の前にあるゴールに向かって全力疾走を続けてこられたのですか?

私の場合、決してマラソンではありません。私は目の前に「何か」を見つけるとそれに向かって取り組み、継続してきた、その繰り返しで現在に至っています。健康でパワーもありますし、好きだったから、そして仕事を愛していたから続けてこられたと思います。もしできるならこれからも続けたいと思います。仕事は私の人生に必要なもの、「生きる全て」です。


<著者プロフィール>
片岡英彦
1970年9月6日 東京生まれ神奈川育ち。京都大学卒業後、日本テレビ入社。報道記者、宣伝プロデューサーを経て、2001年アップルコンピュータ株式会社のコミュニケーションマネージャーに。後に、MTVジャパン広報部長、日本マクドナルドマーケティングPR部長、株式会社ミクシィのエグゼクティブプロデューサーを経て、2011年「片岡英彦事務所」を設立。企業のマーケティング支援の他「日本を明るくする」プロジェクトに参加。