一方、2001年には上海プラズマディスプレイ有限公司を設立。上海におけるPDPおよびプラズマテレビの生産を行う準備を開始した。上海では2001年12月からプラズマテレビの組み立てを開始し、2002年12月からは42型換算で月産2万5,000台規模で、PDPの生産を開始した。大画面テレビの需要拡大を見込める中国市場に向けた一手であった。
2002年5月、パナソニックは、茨木にP2(第2工場)を建設すると発表した。2004年4月の第1期の稼働では、42型換算で月産4万台、第2期では10万台にまで拡大。さらに工場の拡張によって、最大12万台の月産体制を整えた。
P2では、42型が3枚取りできる生産ラインとし、P1に比べた投資生産性は2.4倍、人員生産性は2.3倍、面積生産性は1.7倍となり、大幅な効率化が図られ、これがプラズマテレビのコスト引き下げにつながった。
実は、2002年5月のP2建設発表の翌月、茨木工場ではある出来事が起こっている。
それは、茨木工場の一角で行われた植樹だった。立札に「テレビ事業 復活の樹」と記されたこの植樹は、プラズマテレビによって、テレビ事業を復活させるという強い意志を込めたものだった。
パナソニックは長年に渡り、ブラウン管テレビでトップの座に君臨し続けてきた。だが、ブラウン管テレビの後期に見られたフラットテレビへの対応に後れ、ソニーに圧倒的な差をつけられたことがあった。
このときの悔しい経験を忘れず、テレビ事業で巻き返しを図るために、テレビ事業の総本山であり、PDPの生産を行う茨木工場に、あえて「復活の樹」を植樹したのだ。
だが、今回のPDP事業の終息でも証明されるように、11年前に行われた植樹の想いは、残念ながら達成されなかったといえるだろう。パナソニックはもう一度、「復活」に向けた挑戦を開始することになる。
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【レポート】「テレビ事業 復活の樹」に懸けた思い - パナソニックのプラズマ事業の歴史を振り返る・後編 (2013年11月8日)