かつて僕が大学受験を目前に控えていたころ、僕の母親は内緒で、息子の大学合格を祈願して一人でお百度参りをしていたという。入試に挑むのは自分ではなく息子であるため、現実的に母親にできることはなにもないのだが、だからといって本当になにもすることなく、息子の入試を待つのは精神的にきつい。そこで、母親は自分にできることを必死で探した結果、せめてもの願掛けを実行したのだ。
こういう話は僕の母親に限らず、世間に多くある。人生には人間の力ではどうすることもできない巨大な壁や複雑な事情が無数に横たわっているもので、人間はそういう諸問題にぶちあたったとき、それでも簡単にあきらめきれず、なんとか光明を見つけようと必死になる。その結果、神仏にたよったり、ゲンを担いだり、占いにすがったりするわけだが、それは決して怪しいものでも現実逃避でもない。なにかを信仰するということは、無力な自分に必死に抗おうとする個人の戦いなのだ。
信仰心の強い妻を冷ややかに見る夫、夫婦で言い争いが絶えない毎日
たとえば、以前取材したことがある40歳の女性・Fもそうだ。彼女は27歳のときに5歳年上の男性と結婚し、すぐに一男一女をもうけた。来年、その長男が都内の有名私立中学を受験するということで、目下のところ親子で奮闘中だ。
幸いにも長男は頭の出来が良いらしく、真面目な性格でもあるため、日々塾通いに精を出し、来るべき受験に向けて必死に努力している。したがって、母親であるFとしてはそんな息子を愛情深く見守り、応援するしか手はないのだが、それだけでは気持ちがソワソワして、どうしても落ち着かないため、かつての僕の母親のようにお百度参りをしているという。Fは自分の無力さを自覚しつつも、それでも息子と一緒に戦っているのだ。
しかし、一方の夫はそんなFに冷ややからしく、「お百度参りなんて、そんな非科学的なことをやっても意味がない」と言って、冷笑するらしい。
夫は有名大学の理工学部を卒業後、大手電機メーカーの開発職に就いている、言わば科学者だ。そんな彼にとっては科学的なものこそが正義であるからして、彼が思う"実体のないもの"を信仰するというFの行動はどうにも理解しがたいのだろう。
Fにしてみれば、これはつらいところである。自分は息子のために一生懸命頑張っているだけなのに、それを夫にあっさり否定されると腹が立つのは当然だ。しかも、Fは高卒であるため、有名大学卒の夫に「非科学的だ」などと言われると、なんとなく馬鹿にされた気分にもなる。コンプレックスを言葉で刺激するのは暴力と同じだ。
したがって、最近は夫婦の言い争いが絶えないという。なにかというと、すぐに科学の二文字を持ち出して理論的な言葉を整然と並べる夫と、信仰心が強い妻。そんな二人の口論なのだから、ずっと平行線を辿るのは無理もない。また、そういったことは息子の受験以外にもあるそうで、たとえば夫は初詣には行かない主義だとか。夫にとっては、初詣も非科学的なのだ。
何かを"信じる"ことでは共通している夫婦、実は互いに共鳴
では、そんな夫は息子の中学受験のためになにもやっておらず、ただ黙って見守っているだけなのかといえば、そうではないからおもしろい。夫はFと違って、たとえば頭脳の働きに良いとされる食事を作ってあげるようにFに提案したり、その手の各種サプリメントをどこかから購入してきては息子に与えたり、夫は夫なりの考えのもと、合理的だと判断したことを一生懸命実践しているという。要するに、この夫婦は二人とも、愛する息子のためになんらかのサポートをしているのだ。
その他にも、夫はいわゆる科学的なものへの関心は人一倍強く、生活をより合理的にするためなら、ありとあらゆる製品に頼るところがあるのだとか。実際、家には最新の電化製品が多種多様にそろっており、生活便利グッズも豊富。健康管理にも厳しく、少し体調を崩しただけで、様々な薬やサプリメントを摂取するという。
そう考えると、結局のところ科学好きの夫もFと同じ種類の人間なのではないかと思えてくる。Fが人生を少しでも良くしよう、あるいは難題に立ち向かおうとするために神仏を信仰するのと同じように、夫もそのために科学を信仰しているということだ。
信仰の対象が神仏になると宗教的なイメージになり、信仰の対象が科学であると合理的なイメージになるだけで、そのイメージの違いが大きいから戸惑うこともあるかもしれないが、基本的な心理は一緒である。双方とも、自分なりに戦っているのだ。様々な問題を抱えた現代人は、なにかを信仰していないと生きていけないのかもしれない。
夫婦というのは不思議なもので、一見正反対の性格に思えても、深い部分では同じ理念を共有している場合が多い。このF夫妻の他には、たとえば巨人ファンの夫と阪神ファンの妻がいたり、和風好きの夫と外国かぶれの妻がいたり、他人から見たら価値観が合わないのではないかと不安になる夫婦も少なくないが、それぞれの夫婦がそれでも共に暮らしていけるのは、そういう深い部分で互いに共鳴し合っているからだろう。
<作者プロフィール>
山田隆道(やまだ たかみち)
小説家・エッセイスト。早稲田大学卒業。これまでの主な作品は「虎がにじんだ夕暮れ」「神童チェリー」「雑草女に敵なし!」「Simple Heart」など。中でも「雑草女に敵なし!」は漫画家・朝基まさしによってコミカライズもされた。また、作家活動以外では大のプロ野球ファン(特に阪神)としても知られており、「粘着! プロ野球むしかえしニュース」「阪神タイガース暗黒のダメ虎史」「野球バカは実はクレバー」などの野球関連本も執筆するほか、各種スポーツ番組のコメンテーターも務めている。
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