現在、全国的・一般的に根付いている数々の料理や食文化の起源や歴史を辿っていくと、意外にも大阪発祥のものが少なくない。そんな“食”に関する「実は大阪発祥だった」ものを紹介していこう。
オムレツとライスを合わせた新メニューとして誕生
まずは洋食メニューの定番「オムライス」。「オムライス発祥」や「元祖オムライス」を自称する洋食屋さんは幾つか存在しているが、中でも最も有力視されているのが、東京・銀座の「煉瓦亭」と大阪・心斎橋にある「北極星」という洋食屋だ。
「煉瓦亭」では、明治33年(1900)に賄(まかな)い料理としてオムライスの原型となるものが誕生。ただしこれは、卵、玉ねぎ、ひき肉、ご飯を混ぜて焼いた料理で、オムライスというよりチャーハンに近いものであった。
一方、北極星にて大正14年(1925)に考案されたものは、ご飯にマッシュルームと玉ねぎを混ぜてトマトケチャップライスにしたものを、薄焼き卵でくるんだもの。まさしく現在一般的に食べられているオムライスの元祖がここで誕生したわけである。
いつもオムレツとライスを注文していた常連客に、初代主人の故・北橋茂男氏が「いつも同じものでは飽きるだろうから、オムレツとライスを合わせたようなものを提供できないだろうか」と考えたのが誕生のきっかけ。オムレツ+ライスで「オムライス」と命名されたこの一品をその常連客は非常に気に入り、次第に同店の人気メニューとなっていった。
ちなみに北橋氏は、フランス料理からヒントを得た牛の内臓を使った料理を日本で初めて確立し、「ホルモン料理」として商標登録した人物でもある。
このホルモン料理は煮込み料理で、その後日本ではホルモン焼きの方が一般的となっていったわけだが、それまで日本で食材として全く認知されていなかった牛の臓物を使ったこの「ホルモン料理」がなければ、ホルモン焼きも誕生していなかったかもしれない。
大阪・船場で生み出された「きつねうどん」
次に、和の大衆食であるそば・うどん。その代表的なものに油揚げをのせた「きつねうどん」があるが、これも諸説ある中で大阪発祥説が有力である。
明治時代、寿司屋で奉公していた故・宇佐美要太郎氏が大阪・船場でうどん屋「本舗松葉家(現在は「うさみ亭マツバヤ」)」を開店。そして、寿司屋でいなり寿司の揚げを作っていた経験を生かし、うどんと一緒に甘辛く煮た油揚げの小皿を添えてお客に出し始めた。
すると、当初宇佐美氏は別々に食べるものとして提供したつもりだったのだが、多くのお客が油揚げをうどんの鉢の中に入れて食べていたのだ。しかも、それが「うまい!」と好評で、やがて宇佐美氏ははじめからうどんに油揚げをのせて出すことにした。これが「きつねうどん」の始まりと言われている。
工場のベルトコンベアをヒントに回転寿司を考案
さて、今や日本全国どころか、海外にまで広がっている外食産業「回転寿司」。この回転寿司を考案したのが、東大阪市に拠点を構える「元祖廻る元禄寿司」元会長の故・白石義明氏である。
当時立ち食い寿司店を経営していた白石氏は、ビール工場を見学した際に見たベルトコンベアから回転寿司のアイデアを思いつく。「ネタを乗せた皿をベルトコンベアでお客の手元まで届くようにすれば、効率よく多くのお客をさばけるのでは?」と考えたわけだ。
そこから幾多の試行錯誤の末、昭和33(1958)年、ついに旋回式食事台が完成。東大阪市に「廻る元禄寿司1号店」がオープンした。
席に座ればすぐにでも好きなネタを手に取れるところがせっかちな大阪人の気質に合ったのか、同店は好評を得て、昭和42年(1967)には宮城県仙台市にフランチャイズ1号店がオープン。そして昭和45年(1970)に開催された大阪万博に出店したことにより、「廻る元禄寿司」は一気に注目を集める。
高級食であった握り寿司を手軽な大衆食として広めたこの革命的業態「回転寿司」は、その後全国に広がっていく。そして元禄寿司が持っていた特許期限が満了となると、多くのフランチャイズ店が新たな屋号を立ち上げ、更に新規参入も相次いでいった。
世界に先駆けて完成されたレトルトカレー
革命的と言えば、お湯で3分間温めるだけで食べられる市販レトルトカレーの登場も革命的であったわけだが、これも大阪発祥。昭和43年(1968)、大阪に本社を置く「大塚食品」が阪神地区限定で発売したボンカレーこそ、日本初どころか世界初となる市販のレトルトカレー第1号である。
レトルトパウチの食料はアメリカで軍用携帯食として以前から存在していた。しかし、当時アメリカでは既に各家庭に冷蔵庫が普及していたため、保存食であるレトルト食品を一般向けにも製造・販売しようとの発想は生まれなかったのである。一方、その頃の日本ではまだ冷蔵庫の普及率が50%強であった。したがって、大塚食品は常温保存できるレトルトカレーの開発に力を注いだわけだ。
大阪駅前のビルで日本初の屋上ビアガーデン開催
日本の夏の風物詩として、6~8月にかけて各地の商業ビルや百貨店の屋上で実施されるビアガーデン。この「屋上ビアガーデン」を日本で最初に開いたのが、「ニユートーキヨー大阪第一生命ビル店」である。
ニユートーキヨーは現在、東京・有楽町に本社を構える昭和12年(1937)創業の老舗外食産業企業。スキヤ橋畔に開店したビアホール「ニユー・トーキヨー」として始まり、昭和27年(1952)にはビアホールではなく、同社初のビアレストランとして大阪に「ニユートーキヨー大阪第一生命ビル店」を開店した。
旧大阪第一生命ビルの地下にあった同店に昭和28年(1953)、3日間オートバイの展示会会場として貸し切りの依頼があったことが発端だ。その際、展示会来賓者が店内に入りきらず、ビルの屋上も会場として利用し、そこでビールや料理を振る舞ったのが屋上ビアガーデンの発祥と言われている。
展示会が終わっても「また屋上でビールを飲みたい」との要望が殺到し、これはいけると、夏場に屋上ビアガーデンを開くことにしたのだ。
そのほかの大阪が起源と考えられる食文化
●インスタントラーメン
先述のレトルトカレー以上に、世界に誇る日本発の食文化となっているインスタントラーメン。これを発明したのが、「日清食品」の創業者である故・安藤百福氏。昭和33年(1958)、安藤氏は大阪府池田市の自宅裏庭に建てた小屋で研究を重ね、インスタントラーメン第1号となるチキンラーメンを完成させた。
●佃煮
1582年本能寺の変が起きた際、徳川家康もわずかな手勢で畿内の堺にいたという。身の危険を感じた家康は三河の岡崎城へ戻ろうとするが、神崎川を渡る手段がなく足止めをくらう。そこに救いの手を差し伸べたのが佃村(現在の大阪市西淀川区佃)の漁民たちだと伝えられている。
そこで漁民たちは、漁船と備蓄していた小魚煮を家康一行に提供。この出来事により、後に家康は江戸に佃村の漁民たちを呼び寄せ、漁業の特権を与えて小魚煮を大いに作らせたとか。これが安価で日持ちもする「佃煮」として全国に広まっていったとされている。
●しゃぶしゃぶ
「しゃぶしゃぶ」の原型となるものは、京都「十二段家」という割烹料理店。これを「肉のしゃぶしゃぶ」という名前でメニューにし、商標登録したのが大阪・堂島のビフテキ店「永楽町スエヒロ本店」である。
これらの他、「缶入りビール」「天津甘栗」「アメリカンコーヒー」などが大阪発祥と言われており、これに京都、神戸を合わせると、現在の日本の食文化に近畿発祥のものが多いことが分かる。
考えてみれば、現在の東京の基盤となる江戸の町づくりは、それまで日本の中心地であった京都や大阪の文化を多く取り込んで作られていった新興都市プロジェクトであった。現在広く普及している食文化に京都や大阪を起源とするものが多いのも、当然と言えるのかもしれない。