上毛高原、上毛三山、上毛新聞、そして上毛かるた……。群馬にまつわるものにはよく、“上毛(じょうもう)”と付く。だけど“上毛”って何? 群馬の旧国名は“上野国(こうずけのくに)”であり、上野国にも群馬県にも“毛”の字なんてつかないのに……。そこで今回、“上毛”そして“毛”の謎について探ってみた。
古代からの歴史ある“上毛”の呼称
「上毛という表現は既に古代の土器にも見ることができます。当時から地元ではこの地域のことを“上毛”と言っていたのかもしれません」。お話してくれたのは群馬県立歴史博物館のスタッフ。
平安時代には陸奧を統治する機関として、坂上田村麻呂により造られた胆沢(いさわ)城跡(岩手県水沢市)でも、墨で“上毛”と書いた資料がある。それが現在の群馬のあたりを指すかは定かではないものの、上毛という言い方は確かにあったようだ。
もともと群馬県は古墳時代、上毛野とも呼ばれていたという。それが大宝4年(704)に「国名を2文字とする」と定められたとき、“毛”の文字が抜けて“上野”とされたよう。しかし、地元では「毛」という文字に愛着があったのか、古代より上毛と呼ばれていた可能性は高い。
ここで疑問。上毛野があるならば下毛野もないとおかしい。そう思って調べたところ、現在の栃木県あたりを古墳時代に下毛野と呼んだことが分かった。つまり、北関東一帯を毛野国と呼んでいたようだ。下毛野は律令制以降には下野国と呼ぶようになり、現在、栃木県には下野新聞があったりもする。
ちなみに現在、JR両毛線があり、東武線に「両毛号」という特急があるが、その両毛とは上毛野と下毛野の両方の地域を併せて指す言葉。実際に両毛号は栃木と群馬を走っているのだ。
江戸時代には“上州”を使用
さてさて、一度は上野国となったのに、なぜまた上毛という言い方が帰ってきたかと言えば、「それは正直、分かっていません。江戸時代では上州が使われていたので、上毛と呼ぶようになったのは意外と新しいのではないでしょうか。赤城・榛名・妙義を上毛三山と呼ぶのも明治30年代以降と言われています」(群馬県立歴史博物館)。
現在も群馬県を地域別に分けて東毛、中毛、西毛、北毛などと呼ぶこともあるそうだが、何となく“毛(もう)”の音が言いやすいのが、上毛という呼称が今でも親しまれている理由ではないのか?という話もある。
“毛”は穀物を指す? それとも“毛人の国”?
ところで気になるのが、なぜ北関東のあたりが“毛野国”だったのか、ということ。別に毛深い人が多いとは思えないし、髪型に何か特徴があるとも思えない。毛皮を着込むほどに極寒地というわけでもない。
東京都心からも電車でさっと行ける、ごく普通の地域だ。群馬県の友人にも聞いてみたが、「別に美容院の友人からも、特に髪の毛に特徴があるなんて話を聞いたことはないし、あまりにも普通に上毛って呼んでいるから、誰も考えたことなんてないんじゃない?」とのこと。
この毛の意味についても群馬県立歴史博物館でうかがってみたが、「研究者によって見解が分かれるところで、現時点ではこれという解答がないんです」とコメント。ちなみに説としては、「毛とは穀物のことを指し、穀物のとれる大地という意味」というのがある。群馬、栃木は肥沃な土地を持つ一大穀倉地なので、かなり納得させられる説だ。
「毛は織物のことを指し、北関東は織物が盛んだったために言われた」「毛は草木を指し、草木が茂る場所という意味だった」という説も、確かに捨て難い。
「野獣が住んでいる大地」「全身に毛が生えている人の住む土地」というあたりは、関東人的には「失敬な!」と思いつつも、ヤマト政権のあった西の人々にとって、東は果てしなく遠い未開の土地であるように思われていたことを考えれば、そうかもしれないと思わされる。中国の古典で皇帝に従わない国を“毛人の国”と呼んでいたことに倣い、日本でも東の地域を“毛人の国”と呼んでいたことに由来する、というのも説得力はある。
ゴロの良さで落ち着いた“上州”
ところで、上毛と同じくよく聞く“上州”という言い方。“上州そば”“上州牛”なんて言ったりもするが、群馬県民にとってはどちらの呼び名の方がより愛着があるのだろうと群馬県民にうかがってみたところ、「どちらも群馬県民にとっては愛着がありますよ。上毛、上州をどう使い分けるかは、ゴロの良さでしょうね。何となく言いやすい方を使っている感じかな」と群馬県民。
上毛かるた、上州そば、と何度かつぶやいてみる。確かにゴロがいい。そんなつぶやきをしながら、両毛号に乗って観光巡りをしたり、上毛高原あたりに行って上州グルメを味わったりしてみると、自然としっくりきてしまうかもしれない!?