まるで日本茶セットのような弘前名物「藩士の珈琲」

ペーパードリップにネルドリップ、サイフォンにエスプレッソマシーンなど、コーヒーの淹(い)れ方はいろいろあるが、こんなの見たことない! すり鉢ですったコーヒー豆を麻袋に入れ、お湯で満たした土瓶の中に。ちゃぷちゃぷと麻袋を振り出し、ほどよい色合いとなったら注いでさあ召し上がれ!?

コーヒーが溶け込んだ最初の町・弘前

この不思議な淹れ方のコーヒーは、「藩士の珈琲」と呼ばれている。「コーヒーの町」とも言われる青森県弘前市で、今やすっかり弘前名物として定着しているもので、市民や観光客にも親しまれている。

弘前市は弘前城に象徴されるように城下町の印象が強いが、実は古い洋風建築も多く、モダンな街並みが広がっている。そしてその街並みにふさわしく、おいしいコーヒーが自慢の喫茶店も数多い。東北で最初の喫茶店が誕生したのもこの町である。

ところが、弘前が「コーヒーの町」と呼ばれる理由はそれだけではない。弘前は人々の日常にコーヒーが溶け込んだ、我が国最初の町なのである。

弘前藩士は「薬」としてコーヒーを飲んでいた

時は、今からおよそ200年前の文化4年(1807)に溯(さかのぼ)る。この年、徳川幕府はロシアからの襲撃に備えて警護するため、弘前藩に樺太(からふと)出兵を命じた。ところが、北方警備の地で藩士たちは野菜不足に陥り、多くが水腫病(水ぶくれになり、顔がむくみ、腹が太鼓のようになって苦しみ死ぬという奇病)となって苦しんだ。

と、ここでコーヒーの登場となる。オランダ人が長崎に持ち込んだコーヒーは、当時は水腫病に薬効があるとされていた。このため幕府は弘前藩にコーヒーを送り、安政2年(1855)の再出兵以降、藩士が薬用に飲用することになったのである。これが今や弘前名物となった「藩士の珈琲」のルーツである。

藩士に混じって、北方警備には漁民や農民などの一般庶民も加わっていたそうだから、長崎出島の蘭学者や特権階級を除けば、日本で最初にコーヒーを飲んだのは弘前の人だったと言えるのだ。

古文書を頼みに、ひとりの喫茶店主が再現

「藩士の珈琲」を現代に再現したのは、弘前市内で「成田専蔵珈琲店」を経営する成田専蔵さんである。

弘前市の珈琲文化の担い手、成田専蔵さん

「藩士の珈琲」のメッカ、成田専蔵珈琲店

「黒くなるまでよく煎り、こまかくたらりと成迄つきくだき弐さじ程麻袋に入、熱き湯にて番茶の如き色にふり出し、土びんに入置、さめ候得ばよくあたため、砂糖を入用るべし」(『蝦夷地御用留 二』)

この仕様書をもとに再現された「藩士の珈琲」は、成田さんのお店ほか、弘前市内の10店舗で楽しむことができる。楽しいと思うか、面倒と思うかだけれど、成田さんの店では、お客さん自身が江戸時代の仕様書通りのやり方で自らコーヒーを入れることもできる。

(1)すり鉢に焙煎した豆を入れ、すりこぎでよくすりつぶし粉にする
(2)お湯を入れた土瓶の中に、すりつぶした粉の入った麻袋を入れて振り出す
(3)ほどよい色合いとなったら茶碗に注いで、好みで砂糖を入れて味わう

ごますりのように、すりこぎでコーヒー豆をすりつぶす

すりつぶした豆を麻袋に。次に麻袋をお湯の入った土瓶の中へ

やってみると、やっぱり楽しい。ティーバッグのようなイメージだが、麻袋を土瓶の中でちゃぷちゃぷと揺らして、その湯気とともに豊かな香りを楽しむ。「なんかゴージャスで豊かな時間という感じがしませんか」(成田さん)。味はというと、優しい薄味で、とろりとした飲み口を楽しめる。

最近ではコーヒー専門店などで、多用途で使える小さな麻袋も売っているので、家庭でも「藩士の珈琲」(らしきもの)を再現することができる(すりこぎは省略してもよいのでは)。是非お試しあれ。

ほどよい色合いになったら茶碗に注いでできあがり

もちろん本場の弘前で味わう一杯はまた格別のはず。青森の春を告げる「弘前さくらまつり」(4月23日~5月6日)で満開の桜を堪能しがてら、市内の喫茶店でゆっくり「藩士の珈琲」を味わうのもいいだろう。

前述した10店舗はどれも居心地のよさが抜群なので、街歩きで疲れた足を休めるのにももってこいだ。例えば、明治・大正ロマンの香りを感じさせるレトロな内装の「西洋茶寮 salon de 甚兵衛」では、コーヒーと一緒に白神産そば粉を使ったクレープをオーダーするのがおすすめ。

音楽好きなら、オールディーズの楽曲が流れる「煉瓦亭」、クラシックの名曲を楽しめる「名曲&珈琲ひまわり」もいい。アートが趣味なら、画廊とひとつづきになった「珈琲北奥舎」がイチオシ。思い思いのコーヒータイムを満喫することで、その味を深く記憶に刻んでほしい。