モータリゼーションの最中、肩身が狭かった国道2号線のチンチン電車

1975(昭和50)年頃まで、阪神地区では国道2号線を路面電車が走っていました。1両編成のいわゆる「チンチン電車」で、小豆色と肌色に塗り分けられ、下膨れの丸っこいデザインの車両もあり、「金魚鉢」と呼ばれていました。

実家のアルバムを整理していたら、たまたま廃止当日の阪神国道線・甲子園線の電車の写真が見つかった

高度経済成長期、急速に進んだモータリゼーションの最中、チンチン電車はいくぶん肩身の狭い様子で、国道2号線の中央を走っていました。自動車に追い抜かれながらも、「ゴワァー!」「ガタンゴトン!」と、けっこう大きな音を立てて走っていたのを覚えています。

筆者は生まれてこの方、ずっとこの阪神国道線・甲子園線の沿線に住んでいます。最寄り駅の先はもうすぐに甲子園の砂浜になっていて、昭和40年頃は打ち寄せる波も味噌汁色……、とても人が入れそうな海ではありませんでした。これでも、戦後間もない頃までは有名な海水浴場だったらしいのですが。

いまは水も少しはきれいになりましたが、今度は沖が埋め立てられ、「対岸」ができてしまいました。「海」というよりは「川」の風情です。終着駅のそばには小さな山のような森のような場所があり、子供用の釣堀が営業していました。金魚すくいみたいな平たい水槽に、小さなカレイなど、いまにして思えば飼育の大変そうな海水魚がいたように記憶しています。この地域一帯が観光地だった頃の名残だったのかもしれません。

地域の子供会の行事で、チンチン電車に乗って木下大サーカスに連れて行ってもらったのを、なんとなくおぼろげに覚えています。電車でどの辺りまで行ったでしょうか、いまとなっては記憶もあいまいですが、かなり長いこと乗っていた気がします。窓から垂れたひもがいっせいに揺れて、「パチャ、パチャ」と窓を叩く音が車内に響いていました。

「チンチン電車、今日で終わりやねんて」

かつての阪神国道線は、神戸から芦屋、西宮、尼崎を経て野田まで、野田からは阪神北大阪線となり、大阪の天神橋六丁目まで電車が走っていました。路面電車としてはけっこうな営業距離でした。甲子園線は国道線の上甲子園から浜甲子園までの路線でした。

国道線・甲子園線・北大阪線の回数券(写真左)と廃止記念のスタンプ(同右)

1975年のある日。前日から家族で和歌山へ出かけていて、昼すぎに自宅に帰ってきました。父がふと、「せや、チンチン電車、今日で終わりやねんて」と言い、みんなでぶらりと見に行こうかということになりました。当時、筆者はまだ小学校3年生。それまで当たり前に見ていたチンチン電車がいなくなることに、あまりピンと来ないままでしたが、最終日で無料になっていたので電車に乗りました。

甲子園線の電車で上甲子園まで乗り、記念に回数券を買って帰ってきました。子供心に、もの寂しい気持ちになったのをいまも覚えています。

阪神国道線・甲子園線・北大阪線が廃止された後、阪神パークや、なぜか尼宝線沿いの伊丹の本屋さんなどにも車両が保存されていたみたいです。でもいまはもうありません。どうやら一部の車両は現在も保存されているらしいのですが……。