コンピューターというハードウェアを活用するために欠かせないのが、OS(Operating System:オペレーティングシステム)の存在です。我々が何げなく使っているWindows OSやMac OS XだけがOSではありません。世界には栄枯盛衰のごとく消えていったOSや、冒険心をふんだんに持ちながらひのき舞台に上ることなく忘れられてしまったOSが数多く存在します。「世界のOSたち」では、今でもその存在を確認できる世界各国のOSを不定期に紹介していきましょう。今回はAppleの「Lisa」に搭載された「Lisa OS」を紹介します。
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「Lisa」誕生にまつわるいくつかの事柄
GUI(グラフィカルユーザーインターフェース)を採用したパーソナルコンピューターとして、もっとも有名なのはApple Computer(後にAppleへ社名変更)Macintosh(マッキントッシュ)ですが、GUIを最初に同コンピューターへ持ち込んだのは、同社のLisa(リサ)です。初代Macintoshは1984年1月24日にデビューしましたが、Lisaが世に登場したのは1983年1月19日。ちょうど一年前でした。
そもそもLisaの開発は1978年からと言われていますが、それを裏付ける資料は今回発見することはできませんでした。その一方で明確なのは1979年頃の同社で行われていたプロジェクト資料。屋台骨となったApple IIの後継機種と、技術的な妥協をしない高性能なパーソナルコンピューター、そして低コストのコンピューターと三つの開発プロジェクトが進行中でした。この二つ目に当たるのが今回のターゲットとなるLisaです。ちなみに一つ目はApple III、三つ目は後のMacintosh。よくLisaが"Macintoshの前身"と言われますが、スタートラインがまったく異なるコンピューターであることが、このプロジェクトの存在から理解できるでしょう。
Lisaに関する逸話としては、故Steven Jobs(スティーブン・ジョブズ)氏の娘の名前をコンピューターに付けたという話です。Lisaは「Local Integrated Software Architecture」の頭文字を取ったものと公式発表されましたが、同氏の自伝によるとプロジェクトの広報担当社が作り出したものでした。Jobs氏自身は娘の名前であることを、同書の著者であるWalter Isaacson(ウォルター・アイザックソン)氏に語っています。
さて、Lisaの開発プロジェクトは難航していました。Apple IIがいつまでも売れ続けると思っていなかったことを理由にJobs氏をはじめとするApple Computerは、前述のプロジェクトを立ち上げました。同プロジェクトでは、タッチスクリーンの採用も考慮しつつも、エンジニアのプレゼンテーションに満足できず、無駄に時を消費してしまったそうです。ここで登場するのが、Macintosh開発プロジェクトを立ち上げたJef Raskin(ジェフ・ラスキン)氏。Apple IIIの開発中に家庭用ゲーム機のプロジェクトを立ち上げましたが、今から述べる理由で後のMacintoshに方針転換したそうです。
開発が難航する各プロジェクトを刷新するため、Raskin氏はパロアルト研究所への見学を提案しました。ここでJobs氏が目にし、同社の方向性を決定的なものにしたのが、Alan Kay(アラン・ケイ)のダイナブック構想から生み出されたGUIやマウスといった構成を備えるAlto(アルト)の存在。当時主流だったCUI(キャラクターユーザーインターフェース)に見慣れた人々に、ビットマップベースのデスクトップは画期的でした。もちろん同研究所を所有するXerox(ゼロックス)も最初からすべての技術を公開した訳ではなく、さまざまな交渉を経た三回目の訪問で、Altoに連なるオブジェクト指向プログラミングのSmalltalk(スモールトーク)のデモを目にしたそうです。
興奮したJobs氏は、Smalltalkが備えるネットワークやオブジェクト指向という真のポテンシャルに気付かず、表層的なGUIとビットマップスクリーンに心を奪われたと述べていますが、彼にはそれだけで未来のコンピューターがあるべき姿をイメージできたのでしょう。この時同席していたのが、Lisa開発プロジェクトの中心人物となったBill Atkinson(ビル・アトキンソン)氏。本当の意味でLisaの開発はここから始まるのです。
難航していた開発プロジェクトは方向性が明確になったことで躍進し、Jobs氏とAtkinson氏はさまざまなアイディアを盛り込みました。黒い背景色に白色や緑色の前面色を用いるのが普通だった当時のパーソナルコンピューターに、WYSIWYG(What You See Is What You Get:ウィジウィグ)の概念を導入して白地を導入したのはJobs氏のアイディアと言われています。その一方でAtkinson氏も活躍しました。当時のパロアルト研究所でも実現していなかったカスケードウィンドウ(ウィンドウを重ね合わせる処理)を実装するなど、精力的にLisaの開発を推し進めまています。
しかし当時のLisa開発チーム全員が、同様の思想を思い描いて開発に取り組んでいた訳ではなく、HP(Hewlett-Packard:ヒューレット・パッカード)などから引き抜いた開発陣は、Jobs氏とAtkinson氏の蜜月ぶりを不満に感じていたそうです。そもそもLisa開発プロジェクトのスタートラインは、技術的な妥協をしない高性能なパーソナルコンピューターを生み出すものだったにも関わらず、Jobs氏はパロアルト研究所で見たAltoに刺激され、普通の人が買えるシンプルで安価なコンピューターを作りたいと思うようになりました。
同氏の心変わりが開発チーム全体に浸透しなかったことが、その後のトラブルに発展します。開発陣は互いに齟齬を来すようになり、価値観の相違から社内抗争にまで発展。その結果として経営陣は、1980年9月にLisa開発プロジェクトのリーダーとしてJohn Couch(ジョン・カウチ)氏を指名し、Jobs氏は研究開発担当バイスプレジデントという肩書きもなくして、一切の担当を持たない会長に現場から追いやることにしました。そして1983年1月19日を迎えたのです。