無自覚で、無秩序で、夢中だからこそ撮れる

たまたま書店で雑誌『ぴあ』を手にした松岡少年は、PFFが作品を募集していることを知り、『三月』を投稿。見事、入選を果たす。

第31回日本アカデミー賞において監督賞を受賞した松岡錠司監督

「PFFに入選した時、審査員に言われました。"君はもう二度とこのような作品を撮れないでしょう"と。これから日大芸術学部に進学して映画を撮ろうと燃えていた当時の僕は、もう駄目だと言われたみたいで落ち込んだけれど、審査員の意図はそうじゃなかった。『三月』は本当に無自覚で撮った作品です。専門書を読んで勉強することもなければカット割さえ知らず、完成度を意識することもないまま、カメラさえあれば撮れると思って勢いで撮りました。その計算のなさ、夢中で撮ったことが、どれだけ稚拙でも映画に力を生んだんです。審査員はそれを見抜いていた」

石井聰亙や長崎俊一ら大学の先輩達が映画監督となり、作品が劇場上映されていく流れの中で、松岡監督も映画関連の仕事に就く。しかし一度諦めて、故郷に帰ったことも……。意味もなく英会話教室に通い、パン屋でバイトし、バッティングセンターでただ白球を打ち返した空白の日々。26歳頃のことだった。

「自分には才能がないと、自信をなくしたんです。田舎に引っ込んでいる間は映画を観ることもカメラを触ることもなく、ただ頭を真っ白にしていました。今だから言えますが、経験を重ねていくと、あるとき読めるようになるんです。撮った作品の完成度について予測できるようになってしまった。平均点は取れるけど、『三月』を撮ったときのような活力に満ちた映画を撮ることは、今でも難しいですね」

映画監督とCMディレクターは違う

知人に監督をやってみないかと言われ、東京に戻ることになった松岡監督は筒井道隆、高岡早紀出演の『バタアシ金魚』(1990年)を手掛けて絶賛される。その後、監督業と並行してCMディレクターもこなすようになる。

「CMとは何ぞやというのをあまり理解しないまま、映画の手法で撮ったことがあります。以前、矢沢永吉が出演する某缶コーヒーのCMを担当した時です。波に向かう永ちゃんの立ち姿があまりに格好良く、テンションが上がってしまった僕は、永ちゃんが台詞をすべて言い切る前に"オッケ~!"と叫んでしまいました。保険で何本も撮っておくことが当たり前のCM撮影の現場で、まさかの一発OK。クライアントが"ヤザワ、まだ演技終わってないけど大丈夫?"って感じで慌てていたのを覚えていますね」

CMには企業の論理があり、現場で一番偉い人が首を縦に振らないと撮影は先に進まない。「クライアントとケンカしてはならない」というCMディレクターとしての姿勢を学んだ松岡監督。今は、「はっきりと映画とCMの違いが分かる」という。

「映画はCMとは違う。映画は表現というものが重視される。自分が思ったことを言えて、なおかつ相手がそれを了承すればいい。そこに邪魔者が介在することはありません」

自由であること。夢中であること。勢いがあること。映画は今しか撮れないものなのかもしれない。PFFの偉大なる先輩である松岡監督の言葉は、映像に携わることを志す若者の胸に響いたことだろう。

松岡錠司

1961年生まれ。愛知県出身。日本大学芸術学部映画学科卒業。1981年、第4回PFFに『三月』入選。初の35ミリ劇場用長編映画『バタアシ金魚』(1990)を監督。その他の作品に『きらきらひかる』(1992年)、『トイレの花子さん』(1995年)、『さよなら、クロ』(2003年)、第31回日本アカデミー賞で最優秀監督賞をはじめとする主要部門で5冠を獲得した『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』(2007年)、立川志の輔の新作落語が原作である『歓喜の歌』(2007年)などがある。