2008年NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」

江戸東京博物館は19日より、2008年NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」を開催する。薩摩藩島津家の一門に生まれ、ペリー来航や江戸城無血開城など、幕末の動乱期を生きた篤姫にスポットを当て、篤姫と彼女をとりまく人々ゆかりの品、大奥の華麗なる調度品、幕末の騒乱を伝える歴史資料など約200点を展示する。開催期間は4月6日まで。

天璋院肖像 川村清雄筆 徳川記念財団 蔵

於一(おかつ、後の篤姫)は1835年、薩摩藩主島津家の一門・今和泉島津家の娘として生まれた。13代将軍徳川家定の正室・寿明姫が死去すると、将軍家から島津斉彬に縁組の話が持ち込まれ、於一が縁組候補に挙がる。将軍の正室(御台所)として輿入れするため、於一は島津斉彬の幼女となり、1853年3月10日、篤姫と改名し幕府に実子届を提出する。しかし、篤姫が江戸に上ったのはペリーが来航した2カ月後のこと。以降、国内情勢は刻々と変化し、婚姻は困難を極めた。1856年、ようやく婚姻が内定すると、出自を整えるため五摂家筆頭の近衛家養女となり、名を敬子(すみこ)と改める。当時、敬子22歳。婚礼の行列は先頭が江戸城に入城しても、最後尾がまだ渋谷にいるほどであったという。

ところが、2人の結婚生活は1年7カ月という短い期間で幕を閉じる。1858年7月6日、家定が死去。さらにその10日後に島津斉彬も亡くなりその年、敬子は落飾して天璋院(てんしょういん)と号する。しかし、若き将軍家茂の養母として、また大奥の総取締りとして、引き続き重責を担うこととなる。1862年には家茂の正室として皇女和宮が輿入れをする。その後、家茂は挙国一致して時局にあたるため、三度にわたって上洛。天璋院はその間、和宮とともに将軍不在の江戸城を取り仕切った。

家茂は1866年、大阪にて没し和宮は静寛院と号する。15代将軍慶喜に替わり、1867年の大政奉還・王政復古の大号令等を経て、世情は一気に倒幕へと向かう。1868年、鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発。旧幕府軍が緒戦で敗走する中、慶喜も戦場を離脱して江戸へと退き、大勢は決した。天璋院は実家の薩摩藩が主力となった軍勢が江戸へと進撃するという悲劇的状況の中、徳川家存続のため毅然とした態度をとる。同年3月11日には新政府軍が江戸周辺に続々と集結し、その隊長宛で一命をとして御家存続を願う嘆願書が差し出されるのであった。

その後勝海舟と西郷隆盛との間で江戸無血開城が成立。維新後の天璋院は、16代の徳川家達の養育を第一としてその成長を支え、1883年、48歳の生を終える。天璋院は晩年、和宮没地である塔ノ沢に立ち寄り、和宮を偲んだ追悼の和歌を詠んでいる。大奥では武家と公家という立場の違う間柄であり、両者のお付きの者同士が諍いをしたという逸話が残されている2人であったが、和宮の死を何より悲しんだのは天璋院だったというエピソードは時代に翻弄されながらも、凛とした生き方を貫いた女性・天璋院への共感を生む。

天璋院葬送之図 東京・徳川記念財団 蔵