――違法・有害情報を誰が判断するのかという問題もあります。

米国連邦最高裁の著名な判事だったOliver Wendell Holmes氏は「わいせつを定義することは難しいが、誰が見てもわいせつと感じるものはある」と語っていました。プロバイダ責任制限法※にも、「発信者情報開示」という制度もあり、現在の法の支配システムの下では、最終的には裁判所が判断する仕組みになっていると思います。

※:正式な法律名は「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律」

かつて、ある米国のプロバイダがスパムメールのフィルタリングを行い、これが「私的検閲にあたる」として訴えられた事件がありました。これに対し裁判所は「私的検閲にはあたらない」と判断しました。プロバイダは民間企業であるだけでなく、選択可能なプロバイダが数多くあるからです。

また、一般社会には青少年保護条例があり、有害図書には本屋のおじさんがビニールをかけたり、成人コーナーを設けてそこに陳列したりします。ですが、ネットにはその本屋のおじさんがいないのです。

従って、違法・有害情報を考える時には、一般社会とネット上とどこが対応してどこが対応しないのか、どこまでが同じでどこが違うのか、こういう思考法をとらないといけないのです。「ネットは自由であるべきだ」「ネットは恐ろしいから規制すべき」のどちらの意見も、あまりにも非現実的です。

現在ある法律で何ができるのかの啓発活動など、できるところからやっていけばいいのではないでしょうか。

「議論」の前に精緻な「分析」を

――ネットと一般社会の法的対応状況を冷静にとらえるべきということですね。

議論の前に、冷静な分析が必要です。そうしないと、「屋上屋を重ねる」という状況になりかねません。例えば、迷惑メールの規制の法律に関しても罰則を設けた規定があります。ですが、警察側のリソースの少なさもあって、検挙件数はいまだ3件にすぎません。こうした法律をもっと活用し、100件、200件と摘発を進めていけばいいのです。こうしたことをせず、また新しい法律を作れば、不自由になるだけです。

それはともかく、今回お話ししたような、たくさんの矛盾しかねない諸要因を調和させていく必要があるため、かなり精緻な議論が求められていることだけは、確かな事実のように思えます。